ロスねこ日記 ◈ 北大路公子

第5回 猫さえいれば(後篇)

○十一月八日

 最近やけに昔飼っていた猫のことを思い出す。季節のせいかもしれない。ちょうど今の時期、秋の終わりというか冬のはじめに猫は死んでしまったのだ。絵に描いたような小春日和だったのを覚えている。

 十九歳だった。

 猫は一年で人間の四歳分、歳をとるという。人間に換算すると、十九に四をかけて七十六歳。と思いきや、最初の一年で十歳以上歳をとるというわけのわからない奥の手を繰り出されて、九十歳を超えていると言われた。誰に言われたかというと、かかりつけの獣医さんである。

「もう僕より年上なんですよ。だからさん付けにしなくちゃ」

 と、うちの猫が自分の年齢を超えたあたりから敬称付きで呼ぶようになった、昭和のヤンキー並に上下関係に厳しい獣医師である。彼が言うなら間違いはない。

 猫が死んだのは十五年ほど前である。当時の九十歳といえば、大正元年あたりの生まれだ。生まれだというか、生まれではないのだが、でもそれくらいのおじいさんだ。もらわれて来た時は毛糸玉みたいな子猫だったのが嘘のようだ。

 今でも惜しかったと思う。あと数ヶ月、二十歳の誕生日を迎えたら、妖怪猫又になるはずであった。猫又となった猫は人間の言葉を会得するらしいので、皆で仲良くトランプ大会などをして遊ぶつもりだったのだ。

 大会の優勝賞品は握手券である。人間が勝ったらそれを使って猫と握手し放題。猫との握手はただでさえたまらんものだが、うちの猫は骨太だったこともあって、掌が厚く大きく、一生握手し続けても飽きないくらいの握り心地だった。しかも、いつもは二十秒くらいで怒りの爪がにょにょにょと出てきて強制終了となるところ、握手券を使用した場合は規則により爪出し禁止である。夢の永久握手の実現。その時代がもう目の前に来ていたのである。それが突然(でもないが)の死によって叶わなかった。本当に残念である。

 ちなみに猫がトランプに勝った場合も、賞品は握手券である。人間と好きなだけ握手ができる権利が与えられるのだ。

○十一月九日

 いくら過去を懐かしんでも、死んだ猫は帰ってこない。心に空いた猫穴を埋めるべく、今は目の前のミイラ(けめたけ)と土(きせのさこ)に愛情を注ぐしかないのだ。気持ちを切り替えて、両者にせっせと水をやることにする。けめたけには霧吹きで、きせのさこにはじょうろでと、なかなかきめ細やかな心配りが必要なのだ。

 それにしても、とふと不安になる。われ松のときにも思ったが、本当に水だけでいいのだろうか。もちろん説明書にもそう書いてあり、実際けめたけもわれ松も水を与えるだけで立派に収穫ができた。

 だが、しょせん水である。カロリーゼロでお馴染みの水。それがけめたけやきせのさこやわれ松の唯一のごはんであることを考えると、実に心許ない。お腹へるだろう。かといって、彼らを焼き肉食べ放題に誘うことは現実的ではない。やはり水でなくてはダメなのだ。

 なぜか。考えられるのはスーパー栄養素である。水にはスーパー栄養素が含まれており、けめたけたちはそれを摂り込んでいるのだ。私も近年代謝が落ち、「もう水を飲んだだけで太りますわ」と言っているが、それだってあながち間違いではなかった。おそらく人は歳をとると身体的な感受性が豊かになり、スーパー栄養素にも反応するようになるのだ。人体の植物化である。そうとは知らず今までどおりの食事を続けていると、いわゆる中年太りという現象を招いてしまうのだ。うむ、なにか一つの真理に達したような気がする。かくいう私も植物化がはじまった。スプラウト兄弟の本当の母になる日も近い。

○十一月十五日

 K嬢からの「次は何を育てますか?」「六つ子の次男は誰ですか?」という問い合わせをうにょうにょごまかしつつ、仕事で岩手へ。初めての岩手ということで、わんこそば、冷麺、じゃじゃ麺の盛岡三大麺制覇を目指す。先日発見した真理によると水だけでいいことになるが、浮世の義理ということもある。人間はつらいのである。

○十一月十六日

 わんこそばを食べる。

○十一月十七日

 冷麺を食べる。

○十一月十八日

 じゃじゃ麺を食べる。人間ってすばらしい。

 盛岡で合流した友人たちと街を散策中、猫の一家を見かけた。神社の裏庭に皆で住んでいるらしく、隣接する公園との間を自由に行き来している。私たちが声をかけると子猫が警戒しつつも寄ってきた。その後ろには、じっとこちらを見つめる母猫。心配と警戒が顔に表れているが、近づいてはこない。やはり子育てには、ああして見守る態度が必要なのだ。私も六つ子の残りを育てる時はあの猫のように心して臨もうと謙虚な気持ちになりつつ、近くにいた若いカップルに「こらこら、動物好きをアピールして好感度上げようとしてんじゃないよ」と心の中で毒づくことも忘れない。

 夕方の飛行機で札幌に戻ると、本格的な雪。事故で高速道路が通行止めということで、通常の倍ほどの時間をかけてバスで帰宅した。ついに長い長い冬の訪れである。嫌すぎる。

○十一月十九日

 今シーズン初の雪かきに励む。雪は膝下まで積もり、屋外で暮らすきせのさこも遮光ネットごと雪に覆われている。庇があまり役に立っていない。本当に外で越冬できるのだろうか。不安のまま水やり。土は固く、生き物の気配はまったくしない。きせのさこの安否が気になる。

neko
がんばれ! きせのさこ!

 

○十一月二十一日

 ますます冷え込みが厳しくなってきた。きせのさこが気になって遮光ネットをはがしてみたところ、土の表面に真っ白に霜が降りている。霜というか氷である。一昨日の水が土中に染み渡ることなく、そのまま凍ってしまったのだ。今からこんなことでは真冬になったらどうなるのか。もの皆凍る北海道の冬を乗り越えられるのか。

 たぶん無理。

 迷った末にそう判断し、玄関に避難させることにする。気温的にはそれほど変わりはないが、雪が降らないだけでもましであろう。水をやろうかと思ったが、このまま追加しても永久凍土ができるだけではないかと思い、やめておいた。

○十一月二十二日

 長らく休みをいただいておりました椎茸の素ことけめたけ、本日より二度目の水没の儀を執り行うことになりましたことをここにご報告申し上げます。桶に沈められ、皿で押さえられ、上から漬物石を載せられるという荒行を無事終えた暁には、皆様と再びのお目もじが叶いますよう、椎茸一同願っております。よろしくお願い致します。

 

(つづく)

〈「STORY BOX」2018年5月号掲載〉