◎編集者コラム◎『抱擁/この世でいちばん冴えたやりかた』辻原 登

◎編集者コラム◎

『抱擁/この世でいちばん冴えたやりかた』辻原 登


編集者コラム 抱擁 辻原登

 2009年の春から夏にかけて、東京大学の大教室で辻原登の「近現代小説」と題した講義が始まった。毎週木曜日100分×全14回──ぼくは、大学院生120人にまじって最前列に席を確保、テープレコーダーを回して全講義を聴講するという幸運に恵まれたのでした。
ゴーゴリに始まり、二葉亭四迷、そして、セルバンテス『ドン・キホーテ』、フローベール『ボヴァリー夫人』、ドストエフスキー『白痴』とつづき、最後に自作について語る、というスリリングで時間を忘れるような、実作者ならではの名講義。こんな授業は生れて初めての体験でした。
その連続講義の最終回は〈ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』をどう読み、どうパスティーシュするか〉というもの。パスティーシュというのは「ある作品のイメージやモチーフを使って新たな作品を再創造すること」です。
辻原さんはその講義で『ねじの回転』(岩波文庫ほか数種の邦訳あり)の詳細なストーリーを語ったあとで、この名作(ある種の幽霊物語なのですが)をパスティーシュすることを宣言します。こんなふうに。「タイトルは『抱擁』にします。舞台は東京駒場の前田侯爵邸、昭和十二年。物語は検事の取調室から始まります。前田家の小間使いであった『わたし』が供述をしています」──そしてこれから書こうとする中篇小説の簡略なストーリーが語られる。「わたし」が養育を担当する五歳の女の子の不可思議な行動をめぐるミステリアスな物語。先行する文学作品を使って新たな物語を創作する──これこそ21世紀のモダニズム文学なのです。
講義から数ヵ月後、見事に完成された作品が本書収録の一篇『抱擁』です。ゴシック様式の洋館で展開される芳醇なミステリともいえる傑作。『ねじの回転』と合わせて楽しんでいただければと思います。

 本書は新潮社から刊行された二冊の単行本を一冊に編集して文庫化したもの。一冊は前記の中篇『抱擁』、もう一冊は『約束よ』(文庫化にあたって「この世でいちばん冴えたやりかた」に改題)という七篇を収録した短篇小説集です。日本を舞台にした四篇と古代と現代の中国を舞台にした三篇──いずれも官能と奇想に満ちた傑作ぞろいです。なかでも「この世で……」は黄河の水源を踏査する雄大な物語。大砂漠の彼方の小さな村にたどり着いた主人公が遭遇する驚くべきできごと、そして若き日の恋人との再会、その背後には天安門事件をめぐる無残な物語があるのです。
さらに特筆すべきは、著者の代表作『遊動亭円木』(谷崎潤一郎賞)の主人公である盲目の落語家が登場する外伝三作が収録されていること。円木もののファンを自認する宮下奈都さんの解説も収めた魅力あふれる一冊、自信をもってお勧めします。

 見事な文章の力と純文学というジャンルを超えたストーリーテリング(まさにページをめくる手が止まらない)は、辻原登が現代最高の日本人作家である証といっていいでしょう。この小さな本は、初めてこの作家に出会う読者にとっても最上の入門書になるはずです。
なお、ご紹介した東京大学での講義は『東京大学で世界文学を学ぶ』と題して集英社文庫で刊行されています。これも必読の名篇です。

──『抱擁/この世でいちばん冴えたやりかた』担当者より

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