若松英輔「光であることば」第1回

若松英輔「光であることば」第1回

混迷の時代をどう生きるべきか――若松英輔さんが綴る明日を照らすことば



よろこびについて

 人は、よろこびがなくては生きていけない。からだが水を必要とするように、心はよろこびを希求する。

 だが、私たちはしばしば、何が自分にとって真の「よろこび」であるのかが分からなくなる。分からないものを探すのはむずかしい。

 困難を前にすると、人はそれを不要だと思い込むことがある。だが、よろこびはそうはいかない。それは、心に注がれる水であるだけでなく、私たちの人生を照らす光でもあるからだ。

 よろこびを漢字にしてみる。「喜び」「悦び」「歓び」「慶び」という文字がすぐに思い浮かぶ。喜劇、愉悦、歓声、慶事など熟語にしてみると、それぞれの「よろこび」の差異を感じることができるだろう。

「喜」にはどこか笑いが伴い、「悦」は一人で悦びを感じているような光景が思い浮かぶ。「歓」は他者にも歓んでいるさまが分かるような現象であり、「慶」は、長寿などを祝う語感がある。どれもたしかに「よろこび」なのだが、どれも究極のそれではないようにも思われる。また、「喜び」と書くと「慶び」が見えにくくなる。「悦び」と書くと「歓び」とは異なることを感じ始めたりもする。

 漢字は物事を鮮明に確かめたいときには有用だが、そのいっぽうで「よろこび」とひらがなで書いたときに胸に染み入るような何かが失われてしまうことがある。四つのよろこびはどれも、ないよりはあったほうがよい。だが、「喜び」や「慶び」がない日々であっても、私たちは「よろこび」を必要としている。

 現代人は知らないうちに漢字的に物事を感じているのかもしれない。書き得ないもの、あるいは、語り得ないものは存在しないかのように世界を作っている、そう感じる場面にしばしば遭遇する。

「よろこび」は「喜」「悦」「歓」「慶」のすべてを包含する。「よろこび」の輪のなかには四つの「よろこび」が常にある。探さなくてはならないのは「喜び」や「歓び」であるより「よろこび」なのだろう。言葉で特定されることを拒むような、ある心情のうごめきなのだろう。

 快楽とよろこびは同じではない。むしろ、似て非なるものでさえある。快楽は利己的に追求することもできるが、必ずしもよろこびは伴わない。時間とともに消え去るよろこびを感じることはあるかもしれない。しかし、そのあとに耐え難いほどの虚しさが残ることがあるのも私たちは知っている。

 むしろ、よろこびは、快楽のないところにも生まれる。私たちは悲しみの底でもそれを感じることがある。

 悲しみのなかで、かつて自分が幸せだったときのことを思い返すのではない。深い悲しみと深いよろこびが同居する。そんなことを経験した人も少なくないだろう。とはいえ、よろこびのために、いたずらに悲しみを探すわけにもいかない。

 真に自分が求めているものが見えにくくなることがある。それは現代人だからではない。人間であることの宿命なのかもしれない。むかしの人も同様のことで苦しんできた。

 苦しみは、あることの欠落から生まれるのではなく、誤った方向に進むことによって生じることがある。何かをしないから苦しむのではなく、過剰な活動が苦しみの淵源になっている。

 

 キリスト者が日曜日にミサや礼拝に行くように、ユダヤ教徒は毎週土曜日を安息日とする。安息日に労働は禁じられているのである。人はその日を自分たちのためにではなく、大いなるものに捧げなくてはならない。

『愛するということ』の著者として知られている精神分析家エーリッヒ・フロムは、ユダヤ教の伝統のなかで育った。親族には伝説的なラビ(ユダヤ教の聖職者)もいる。ユダヤ教の歴史は、彼の思想にも色濃く影響を与えている。フロムは『生きるということ』で安息日にふれ、次のように述べている。
 

シャバット(著者注:安息日)には、人はあたかも何も持ってはいないかのように生活し、あること、すなわち自分の本質的な力を表現することのみを目標として追求する。すなわち祈ること、勉強すること、食べること、飲むこと、歌うこと、愛の行為を行なうこと。
 シャバットは喜びの日である。というのはその日に人は十全に自分自身となるからである。

(佐野哲郎訳)

 

 自分自身になる、これ以上の「よろこび」はない。そして、内なる自己へと私たちを導く営みとは「祈ること」「学ぶこと」「食すること」「歌うこと」そして「愛すること」である、とフロムはいう。また、ここでフロムが穏やかに遠ざけているのは、何かを必要以上に所有すること、権力を有すること、そして、自分自身と誰かを比べることでもあるだろう。

 自分は、世にただ一つの存在である。このことを真に認識したとき、その人の前には、それ以前とはまったく異なる世界が開けてくる。もちろん、世界が変わったのではない。変わったのは人間である。しかし、だからこそ、すべてが変わったともいえるのではないだろうか。こうしたとき人は、深い悲しみのなかに尽きることのないよろこびを見出すのである。
 



希望について

 いま、私たちは危機の時代を生きている。危機が深刻な問題となるのは、それまでの常識や枠組みが通用しないからだけではない。危機とは、人々が危機にあることが分からなくなる状態であるともいえるからだ。

 崖の先に何もない現実を知っていれば、人はあえて道をそれるようなことはしない。だが、そのことが見えなくなるとき、周囲の声も耳に入らず、道を踏み外す。もしも、自分が危機にあることを覚れば、自らだけでなく、大切な人を必死に守ろうとするだろう。

 危機を感じることができないとき、その人にとっての世界は、現実ではなく、願望的なそれになる。そうした願望はしばしば、利己的なものに陥る。

 願望と希望は違う。似ているのではない。むしろ、似て非なるものだ。英語に置き換えてもまったく姿が違う。願望は want だが、希望は hope である。願望は、その人が望み、願ったものだが、希望は、希なる望みを指す。「希」はしばしば「稀」と同義になる。

 人がいれば、少なくてもその数だけの願望がある。だが、希望はそうではない。願望が拡散していくのに対して希望は個人を超え、普遍に向かって収斂していく。

 願望はしばしば欲望に変じていく。希望が深化するときは、個の立場を離れていく。それは無私の悲願に至ることもある。

 願望を持つ、というように人は、持ちきれないほどのそれを手に生きようとする。あふれるほど抱え、それらを道端に落としながら歩くような人をすら、見かけることがある。願望の洪水のなかを生きるのが日常になるとき、人は真に必要なものが何かさえ分からなくなる。

 苦しんでいるときに、もっと希望を持った方がよい、などといった助言を受けることがある。だが、こうした言葉を耳にするとき、やり場のない憤りを感じることがあるのではないだろうか。用いられているのは「希望」という言葉だが、聞く者は、そこで意味されているのは願望にほかならないことを敏感に感じ取っているのである。危機を生きる者は、願望のはかなさを知っている。

 真に希望が近く感じられるとき、私たちはそれを「持つ」とはいわない。希望を「抱く」ように感じる。時を惜しみながら、今という瞬間を抱くように、自らに訪れた希望を胸に抱く。

 さまざまな哲学者や思想家が希望とは何かを論じたが、もっとも真摯に語った人の一人がキリスト教を世界に広めた使徒パウロである。パウロは、「希望」とは単に何かを望むという営為であるだけでなく、「徳」でもあると考えていた。儒教が説く「仁」「義」「礼」「智」がそうであるように、人間であることの証の一つだというのである。
 

苦難は忍耐を生み、忍耐は試練に磨かれた徳を生み、その徳は希望を生み出すことを知っています。この希望はわたしたちを裏切ることはありません。

(「ローマの人々への手紙」5章・3‐5節 
フランシスコ会聖書研究所訳注『新約聖書』)

 

 苦しみを生きるという試練が希望という徳を生む。それはけっして私たちを裏切らないとパウロは断言する。彼にとっての希望は、人が努力によって獲得する能力というよりも、大いなるものに与えられているものであると考えられていた。このとき希望は、どこからともなく「宿る」ものになる。

 

 私たちは願望を待てない。そもそもそうした言葉遣いをしない。だが、希望が宿るのを「待つ」ことはできる。むしろ、「待つ」という営為こそ、希望の種子の開花を実現することを本能的に感じている。

 待望という言葉が存在すること自体が、希望と「待つ」ことのあいだにある深い関係を暗示している。

 彼にとって希望を生きるとは、自己自身の使命を生きることと同義だった。そして、彼にとって希望とは、彼が「神」と呼ぶものの顕現を待つことにほかならなかった。先にも引いた「ローマの人々への手紙」でパウロは希望をめぐって次のような言葉を残している。
 

目に見える望みは望みではありません。目に見えるものを誰が望むでしょうか。わたしたちは目に見えないものを望んでいるので辛抱強く待っているのです。

(同8章・24‐25節)

 

 パウロの言葉は私たちの日常の感覚にも近い。願望はしばしば目に見え、手でさわることもできるが、希望は目に見えず、手でさわることもできない。さらに目に見えないものをこそ「待つ」という感覚も、ゆっくり振り返ってみれば分かるだろう。私たちは「生きがい」や「幸福」もまた、パウロのいうように待っている。

「待つ」とき人は、何の当てもなく呆然と立ち尽くすのではない。どこかで何かの到来を感じている。予感というよりもさらに確かなものを感じている。

 未来とは「未だに来ないもの」だが、将来とは「将に来たりつつあるもの」である。「待つ」のは未来的なものではない。それは将来的というべきものなのである。

 将来は遠くにあるのではない。見えない姿をして、すでに今、ここにある。今ここにあるからこそ、それを「抱く」ことができ、それが「宿っている」のを感じ、安心して「待つ」こともできるのである。パウロの言葉はおそらく間違っていない。「希望はわたしたちを裏切ることは」ないだろうからである。

 


若松英輔(わかまつ・えいすけ)
批評家、随筆家、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。1968年新潟県生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒。2007年「越知保夫とその時代 求道の文学」で三田文学新人賞評論部門当選、16年『叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦』で西脇順三郎学術賞受賞、18年『詩集 見えない涙』で詩歌文学館賞詩部門受賞、『小林秀雄 美しい花』で角川財団学芸賞、蓮如賞受賞。他の著書に『イエス伝』『悲しみの秘義』『詩集 愛について』『霧の彼方 須賀敦子』など多数。最新刊は『読書のちから』。
 

「本の窓」2021年1月号掲載〉

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第120回
源流の人 第8回 ◇ サリー楓 (建築家・モデル)