若松英輔「光であることば」第11回

若松英輔「光であることば」第11回

「生まれる」と「作る」の差異をもっとも明瞭に感じるのは詩を書いているとき。初詩集から5年近くを経て思うこととは──


 
詩が生まれるとき Ⅰ

 若いころは、思うように生きたいと願っていた。そうできることがよいことだとも感じていた。だが年齢を重ねてみると、思ったとおりの日々は、真に生きられた時間ではなく、作りもののように感じるようになった。

 そればかりか振り返ってみると、思うようにと自分では信じていても、それは誰かが定めた価値をなぞっているだけの場合も少なくなかった。

 意志の強い人は、何事も決めたとおりに行えるのかもしれない。しかし、意志の強さとは無縁の人生を送ってきた私のような人間は、毎日のように自分を裏切っているような気もする。

 遅れ気味な原稿に集中しよう。そう思ってずいぶん前から時間を作っておいても、終わってみれば、原稿は一文字も進まないにもかかわらず、読むはずのなかった本のページが進み、一本ならず何本かの映画を見るうちにその日が終わっていく。こうしたことが、少なくないどころか日常的に行われている。むしろ、仕事のために準備した日に限って仕事は捗らない。

 人は学ぶ生き物でもあるのだろうが、同時に学べない存在でもある。先のような、まったく予定の立たない生活を長く続けてきたにもかかわらず、カレンダーにはあたかも何の問題もなく原稿に向かえるようなスケジュールが記されている。

 それでもどうにか物書きとして生活できているのは、思ったように書けるからではなく、思ってもみないときに言葉が実を結ぶからだ。

 生まれてきたものと作られたものは違う。たとえば、微笑でも自然に生まれたものはそれを見た他者をも幸せにするが、作り笑いは見る者を不安にさせる。会話などでも同様で、自然に生まれてきた言葉は、人の心にそのまま届くのに対して、作られた言葉は、心を素通りするようにも感じる。

 仕事なら作った時間でもよいのかもしれないが、本当に親しい人との時間は、やはり、それぞれがどんなに多忙であっても、生まれるという感じがする。

「作文」は、文章を作ることの略語だが、「あれは作文だ」という表現は、そこに紡がれた文字が心からのものではなく、頭で組み立てられたものであることを指す。

「生まれる」と「作る」の差異をもっとも明瞭に感じるのは、詩を書いているときだ。作歌あるいは作詩という言葉もあるように、歌も詩も「作る」ものだと考えている人たちはいる。しかし実際のところ詩は、書こうと思ってもなかなかペンは動かない。そのいっぽうで、詩を書いている場合ではない、というときでも、どこからか詩が湧き出るようなこともある。

 詩を書く営みは、名状しがたい言葉のおとずれを鋭敏に感じとることから始めるのがよいのかもしれない。詩人の永瀬清子が、詩の予感をめぐって次のように述べている。
 

 最初はかすかな予感である。
 次第に揺すれリズムが生れる。
 それは詩人の中にあるのだが、肝心なことは、読者の中にも生じると云うことである。
 リズムの存在は受けとり方をスムーズにし、又、脳髄へのきざみこみをたしかにする。
 しかし出来合いの、あり合せのリズムは、読者をより早く嫌悪させる。
 リズムは詩人の産む内容に深く拠って居り、一種の共鳴状態を読者に起こす時のみ、それは成功と云える。
 いま現代詩においてはリズムのことは忘られている。

(『短章集 続 焰に薪を/彩りの雲』)

 
 ほとんど感覚できないほどの微かな予感が訪れる。次に来るのは言葉ではない。あるリズム、律動と呼ぶべきものである。これは言葉の律動というよりも、意味の律動だといったほうがよい。詩は、言語としてではなく、しばしば、胸を熱くし、あるいは揺らす一つの出来事としてやってくる。

「出来合いの、あり合せのリズム」と記されているのが「作られたもの」にほかならない。それは、作品からいのちを奪うだけでなく、読む者に嫌悪感すら抱かせる。

 ここで問題になるのは、「詩」とは何かだ。詩が単に連続した短い文章で数行から数十行の文章を書くことだとしたら、詩を書かない人、詩を読まない人に永瀬清子の言葉は関係ないことになる。詩を書くまで私も、詩は自分の人生と関係が薄いと感じていた。

 詩は、小説や随想のように文学の形式を意味する場合もあるが、その本質は、文学とよりも人生と関係があるのかもしれない。詩とは、言葉と沈黙によって、自らの心の奥深くにある真実のおもいにふれようとすることだからだ。別のいい方をすれば、詩とは、言葉と沈黙によって、真の己に出会おうとする「いのち」の衝動だといってもよいように思う。

 文字で詩を書く人だけが詩人なのではない。人は、自らの人生を真に生きるとき、不可避的に詩人になる。詩に心動かされるのは、私たちの内なる詩人である。もしも、私たちの心のなかに詩人がいなかったとしたら、私たちは街に流れる歌詞に心動かされることもない。

 永瀬清子は挫折する人をめぐってこう書いている。彼女にとって挫折を経験した人、苦しむ人は詩人の異名にほかならない。
 

 挫折することのない人は信用できない。人は宿命として挫折によって「人間」を獲得する。
 心をこめた仕事であれば苦しみがなくて完成しようか。愛することを知るものが悩みなくてありえようか。
 よい事づくめの人は、心をこめていないか、より以上のものを求めていないか、人を押しのけていることを自覚しないか、つめたく他を見下げているか、である。
 大きな挫折をもった人ではじめて他の挫折を共感することができる。人間の最もふかい感情がそこから発している。流されぬ日蓮はなく、十字架にかからぬキリストはありえないのだ。

(『短章集 蝶のめいてい/流れる髪』)

 
 大きな挫折を経験した人だけが、他者の挫折に共鳴する。そればかりか、「人間の最もふかい感情がそこから発している」とさえ、彼女はいう。

 詩を書くようになって確信したのは、誰の心のなかにも眠れる詩人が存在するということだった。それに気が付きペンを執る人もいるし、文字を書かない「詩人」は世にあふれている。そうだとしたら、文字を超えた不可視なコトバと呼ぶべきものによって刻まれた詩も世に多くあるのだろう。肉眼ではそれをみることはできない。しかし、むかしの人がいう心眼なら、それを感じることはできるのかもしれない。

 


 
詩が生まれるとき Ⅱ

 気が付いてみれば、詩を書くだけでなく、詩をめぐって話すことが増えてきた。自分で語る言葉を聞きながら、詩学を講じている自分に驚くことがある。最初の詩集の刊行は二〇一七年四月だから、まだ、五年が経過していない。当時の私が今の姿を見たら文字通りの意味で驚嘆するだけでなく、わが目を疑わずにはいられないだろう。

 今となっては、詩を書かない生活を思い浮かべるのは難しいが、詩とはまるで縁遠い生活をしていた。詩を書く訓練をしたわけでもなく、詩集を愛読していたわけではない。詩を書きたいと願っていたのでもなかった。

 ある出来事がきっかけになって、詩が湧出してきたといった方が現実に近い。ただ、詩的なものには親しみ以上のものを感じていたのかもしれない。

 ここでいう詩的なものとは、言葉の枠からこぼれ落ちる「おもい」であり、祈りを指す。

 真実の手紙はおのずと詩に似る、と書いたのはドイツの小説家であり詩人、哲学者でもあったノヴァーリスだ。ここでの「手紙」は「おもい」の器にほかならない。

「おもい」という漢字は、私が知るだけでも十二ある。日々生活をしているだけで「おもい」を伝えることの困難に直面する。書き手、あるいは語り手の仕事に従事しているときは、むしろ、その困難のなかで活動しているといったほうがよい。

「思い」と「想い」はすぐに挙げられるだろうが、ほかに少なくとも十個の異なる「おもい」が存在する。

「恋い」「意い」と書いても「おもい」と読む。そして、祈念、念願というときの「念い」もまた「おもい」なのである。そうだとすれば、真実の詩はおのずから祈りに似る、ということもできるだろう。

 永瀬清子は「詩を書く時は出し惜しみせず中心から、最も肝心な点から書くべきだ。最初の行がすべての尺度になる」という。

 詩を書くとき、彼女の言葉を文字通り実行しようとすれば、何も書けなくなる人も少なくないだろう。だが、彼女の指摘を詩を書くときよりも、祈るときに受け止めることができれば、予想だにしなかった地平を経験することになる。先の一節に続けて彼女はこう続けている。
 

 まわりから説明して判らそうとすると詩はつまらなくなる。すべてはその親切程度に平板に散文化し、中心さえも「説明」の一部になる。
 つまり詩の行には大切な独立力があるので、本心をつかまぬ行に最初の一行を任すべきではない。又次の行をも任すべきではない、又次の次の行も任すべきではない。
 云いかえれば肝心な中心を捕えれば第一行が次行を、そして又次行が第三行を指し示し、又生んでくれる、とも云える。そしてそこにリズムが生れる。
 つまらぬ所から説きはじめればついに中心に行き合わぬ。そして読者の心にもついに行きあわぬ。

(『短章集 続 焰に薪を/彩りの雲』)

 
 説明するように唱えられる祈りはもう、祈りと呼ぶに値しない。それは「生まれてきたもの」ではなく、「作られたもの」に過ぎない。むしろ、最初の「おもい」が心の深み、人々が「たましい」と呼ぶ場所から生まれれば、その「おもい」に牽引されて祈りは自ずと姿を見せ始める。

 人は、特定の宗教に入信していなくても祈ることはある。誤解を恐れずにいえば、祈りは宗教的世界を超えている。

 愛する人の無事を祈る。こうしたときの、祈りが生まれてくる場所と詩が生まれてくる場所は別ではない。祈るように詩を書く、という表現が自然に感じられるのもそのことを証している。

 別なところでも永瀬清子は、詩の一行目をめぐってじつに印象的な言葉を残している。この言葉も祈りの現場において受け止めるとき、人は単なる助言、示唆以上の何かを見出すだろう。
 

 詩の第一行を書きとめるのは朱鷺に餌づけをするようにむつかしい。
 ねらいかくれて、あの鳥の高貴なくちばしの近づくのを待っている。そしてその鳥が安堵して自然のままの餌と思いちがえてついばむまで、自分はいないもののように茂みのかげにしずかにかくれていなければならない。
 自分は生活の中にまぎれて、詩のことなど考えてもいないかのように──。
 自分はいつも夫や子供や家のことだけを思って、詩のことなどはすこしも考えていないかのように──。

(『短章集 蝶のめいてい/流れる髪』)

 
 生後半年も経たないうちにカトリックの洗礼を受けた。母の胎内にいるときから受洗することは決まっていた。カトリックでは定型の祈りを唱えることが多い。だが、もちろん、そこに収まらない「おもい」が人間にはある。

 祈りとは、自分の願いを訴えることではない。大いなるものと対話することだといった人がいる。祈りは、人が大いなるものの声を聴くことから始められるとき、「作られた行い」ではなく、「生まれた営み」となる。そして、その最初の言葉が、誰の耳にも届かないような、ほとんど沈黙と判別がつかないような姿で営まれるとき、そこから発せられる光は、「思い」の枠組みを打ち破り、私たちをさまざまなる「おもい」の世界へと誘うのである。

 


「光であることば」連載一覧

若松英輔(わかまつ・えいすけ)
批評家、随筆家、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。1968年新潟県生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒。2007年「越知保夫とその時代 求道の文学」で三田文学新人賞評論部門当選、16年『叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦』で西脇順三郎学術賞受賞、18年『詩集 見えない涙』で詩歌文学館賞詩部門受賞、『小林秀雄 美しい花』で角川財団学芸賞、蓮如賞受賞。他の著書に『イエス伝』『悲しみの秘義』『詩集 愛について』『霧の彼方 須賀敦子』など多数。最新刊は『詩集 美しいとき』。

「本の窓」2022年3・4月合併号掲載〉

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