若松英輔「光であることば」第12回

若松英輔「光であることば」第12回

足掛け四年勤務した大学で感じたこと、そして決断の理由とは──


 
学びと勉強

 足掛け四年勤務した大学を辞めた。

 最初から腰掛のつもりだったのではない。前職に区切りをつけた転職だった。十五年ほど前に起業した会社の負債を完済したうえで、経営のバトンもしかるべき人に渡して、大学の門をくぐった。環境を整え、決意を自分に言い聞かせようとしたつもりだったが、それでも辞職の決断をしたのにはそれなりの理由がある。

 それは、今日の大学教育に関する根本的な違和感で、それを象徴するのが「人材」という一語だった。国際的な人材、優秀な人材、独創的な人材など、「人間」ではなく、「人材」という言葉が、文字通り跋扈していた。

「人材を社会に送り出す」という言葉が、学内の会議で発せられたとき、かつて大学が、若者たちを戦場へ送り出す場所になっていった歴史を想い出さざるを得なかった。教員が若者を「人材」と見なしていることが否定しがたいかたちで物語られていた。

 これは特定の大学に限ったことではない。ある別の大学で講演をする機会があり、控室で担当教員と話をしているときも「人材」という表現をめぐる話になった。この人物も、静かな、しかし強い口調でこの不用意な表現に対する疑義を語り、心ある者は一致して、「人材」という言葉を用いるのを止めようと話し合ったという。

「人材教育」「人材バンク」「人材活用」など、大学以外でも人材という言葉は用いられている。ことさらに騒ぐ必要はないではないか、という意見もあるかもしれない。

 ある営利企業が、優秀な人材を雇用しようとするのは理解できる。それがその会社の社風なのだろう。そこに違和感を覚える者は別な企業に勤めればよい。

 しかし、教育機関が追究するのは、利益でもなければ生産性でもない。人間の可能性である。そして、このときの「人間」は、個人を意味するだけでなく、人と人の間を含意する「人間」でもあるはずだ。自分だけのことを考えるのではなく、自分以外の他者と共にどう生きていくのか。こうした問いを根底に据え、さまざまな研究を行うのが「大学」という場所だろう。

 大学という名称は、四書五経の一つである古典の『大学』と無関係ではない。『大学』は人間の叡知の可能性を説いて止まない。だが現実の大学は、就職予備校のようにすらなっている。

 皮肉なことに着任に際して大学側が準備してくれた科目名が「人間文化論」だった。この科目名には深い愛着があった。その名に反しないことを語ろうというのがいつわらざる動機だった。

 同じ「人間」は二人いない。これが人間認識における不動の原点なのではあるまいか。しかし、「人材」という言葉の背後には、材料のように代わりはいくらでもいるという空気がある。

 人材という言葉が用いられるとき、そこではもう真の意味での人間性は問われない。職場での協調性、職場でのコミュニケーション能力は問われても、その人物の人格の深さが問題にされることはない。

 人格と人間が忘れられたところに「学び」は生じない。なぜなら、「学ぶ」とは、真の自己に出会おうとする真摯な営みだからだ。

「人間」が育つ道程において、世にいう「人材」的能力が開花することは珍しくない。しかし、逆はほとんど起こり得ない。植物にたとえていえば、人間性は根であり幹であり、さまざまな「能力」は果実にほかならないからである。

 日常的に「人材」という言葉が語られる環境にいると、大学が推奨する「勉強」にも関心が薄れていく。「勉強」のたどり着く先が「優秀な人材」であることに違和というよりも次元的な異和を感じるようになっていった。

 勉強と学びは、まさに似て非なるものだ。

 勉強は、文字通り、何ものかから強いられ、勉めることである。受験勉強は、まさに勉強そのものだといってよい。勉強の世界にはいつも、答えがあり、期限があり、優劣が判断される。それは比較の世界にほかならない。上位の者がいて、下位の者がいる。

 真に学ぶという現象が起きるとき、そこには必ず主体性がある。ほかの人がやっているから学ぶのではなく、内的必然性があるから学びたいと感じる。

 学びの世界には答えがない。そこにあるのはある種の手応え、「応え」だけがある。中国哲学の古典『荀子』には、「学ぶ」ことをめぐって、次のような一節がある。
 

君子の学は通ずるが為めに非ず。窮するとも困まず憂うるとも意の衰えず、禍福終始を知りて心の惑わざるが為めなり。

(『荀子』宥坐編 金谷治訳注)

 
 次のように意訳することもできる。

 君子の学は、世に通じるためにするのでない。貧しくても困窮することなく、憂いのなかにあっても生きる意志を失わず、人生の試練や幸いを知り、万事において、心に戸惑いを覚えないためである。

 つまり、真実の学びとは、世にいう成功や栄達のためでなく、生の機微を見極め、人生の困難にあって己を見失わずに生きるためである。さらにいえば、たとえ、矛盾が渦巻き、悲しみや苦しみが折り重なることすらある人生であっても、やはり生きるに値するものであることを、全身で感じようとするのが「学び」の本義だ、というのだろう。

 勉強にはいつも明確な目的がある。だが、「学び」には、容易に語り得ない動機があるのではないだろうか。

 懸命に勉強するのは、人よりも秀でるためであり、競争社会を生き抜くためである場合もあるだろう。しかし、学びの理は異なる姿をしている。ただ生きている。そこにも意味と価値と重みがある。それを、自他のうちに見出していこうとすること、それが学びの基点なのではないだろうか。

 


 
求道者と人生の危機

 機会があったら大学に勤務してみたい。そう思った日のことは、はっきりと覚えている。二〇一四年三月八日の午後のことだった。

 ある敬愛する人物の講座に参加するために横浜にいた。講座が終わって、少し遅い昼食を食べようと思っていたとき、留守番電話にメッセージが残っているのに気が付いた。

「さきほど、井上神父さんが亡くなりました」

 もう少し何かを聞いた記憶があるが、詳しい文言は覚えていない。連絡をくれたのは遠藤周作研究の第一人者である山根道公さんだった。この「神父さん」という言葉には、稀有なる導師でありながら、同じ人間であるという認識があって、文字上では表しづらい無上の敬愛がこもっている。

 山根道公さんと出会ったのは、一九八九年ではなかったかと思う。私は二十歳か二十一歳になる頃で、もう三十年来の付き合いになる。出会った場所は、亡くなった井上洋治神父が主宰していた「風の家」だった。山根さんはそこに集っている十余名の若者を束ねる役割をしていた。そこには少し遅れて、中世哲学の第一人者となった山本芳久さんもやってくることになる。

「風の家」には、二重の意味がある。場所的には神父が自宅を開放していた集いの場であると同時に神父が信じる霊性を深める信仰共同体でもあった。

 もちろん、井上洋治は「神父」という名称の通り、カトリックの司祭だったのだが、彼のミサでは歌も歌われず、沈黙が重んじられ、隠れキリシタンが使っていた聖杯が用いられたりしていた。ミサのあとには聖書の勉強会があった。

 神父は文学者とも深い交流があり、批評家の河上徹太郎や福田恆存、詩人の田村隆一とも交流を深め、ある日、ミサに行くと遠藤周作や安岡章太郎がいる、といった場にもなっていた。

 また、神父は先に挙げたような人から直接贈られた本も含めて、自分の本を若者たちに開放していた。阪田寛夫、大原富枝、高橋たか子、木崎さと子といったキリスト者の文学にもここで出会った。それらには皆、神父宛ての署名が入っていて、それを眺めているだけでも心動かされるものがあった。

 私の人生を変えたといってよいマイスター・エックハルトをはじめとして、キリスト教に関するものはもちろん、柳宗悦、井筒俊彦、文化人類学者の岩田慶治やヴィクトール・フランクルの著作を手にしたのも神父の書棚だった。

 振り返ってみると「風の家」が私の「大学」だった。信仰の師に出会っただけではない。文学も哲学も芸術も、私はここで学んだ。そして、親友と呼べる人物ともここで巡り会った。

 若さとは未熟さの別な表現にほかならないが、私の場合は、大きく未熟さに傾斜していた。神父はそうした私をときに激励し、慰め、そしていつも見守ってくれていた。神父に出会っていなければ人生が変わっていただけではない。人生が始まっていなかったのではないかとすら思う。

 神父が亡くなったと聞いた、その瞬間、打ち消しがたい、ある思いが胸を貫いた。

「今度はお前の番だ。お前がどんなに未熟でも、お前が若い人と向き合うときだ」

 大学に勤務するようになったのはそれから四年半後だったが、その間も、幾度となく次の世代に言葉を受け渡すことを折にふれて考えていた。

「教える」という言葉には、以前から違和感があった。神父が行ってくれたのも「教える」というよりも「手渡す」というべきことだったからだ。それは手から手へというよりも心から心へと伝えられた。

 最晩年、神父が亡くなる数ヶ月前、神父から電話があった。どうしても話したいことがあるから来てほしいという。昼食を食べながら、さまざまな話をし、少し言葉が途切れたときだった。

「若松君」、そう神父は少し声を詰まらせるようにしながら、こう続けた。

「ぼくは、心から心へ伝えたいんだ。これまでもずっとそう願ってきたんだ……」

 この言葉を私は神父の「遺言」だと思っている。浅学菲才の身には、神父の思想を受け継ぐことはできない。しかし、頭から頭へではなく、心から心へ言葉を手渡すことはできるかもしれない。ことに若い人たちにそうしたい。神父が亡くなり、彼を思い出すたびにそうした思いを深めるようになっていった。

 勤務校には、いわゆる優秀な学生が集っていた。知的に優秀であることは素晴らしい。しかし、それが唯一の在り方ではないだろう。古今東西の歴史を見ても、優れて知的ではなくとも、深い生き方をしている人は無数にいる。

 大学では、知的であることが最初の扉であり続ける。その扉を越えなければ、何も始まらないような雰囲気が流れていた。

 知情意という言葉がある。知性・感情・意志の三つが一つになったとき、その人の人間性が輝きを増す、というのだろう。ただ、これは順序でもなければ、それが均等である必要もない。そんな型にはまったような人間は存在しない。

 しかし、いつの間にか知情意が、鍛錬する順序になり、そんな世界が出来上がった。確かに、むかしの人──たとえば二宮尊徳──のなかには「知」を土台にせよ、と強く説いた者も少なくない。しかし、今日のような学校制度がなかったことがそうした言葉の背景にある。

 尊徳は幼いときに両親を喪い、生きることにおいて辛酸をなめなくてはならなかった。彼は、菜種を自分で育て、その油で火をともして学んだ。その上で「知」の意味を説いた。彼は生のなかで「情」と「意」をめざめさせ、その上に「知」を再構築したのだった。

 講義などで若者たちと交わりながら、深まっていったのは、「知」の扉が開け放たれるのは、「情」や「意」の扉の後でもよいのでないのか、ということだった。

 神父はしばしば、何か「について知る」という間接的認識と何か「を知る」という直接的認識の差異を語った。海を見ることなく、水にふれることがなくても、海「について」、ある程度まで知ることはできる。こうした「知」と、海で一日を過ごし、水面の奥には無数の生き物がいるのを実感するのはまったく異なる「知」だというのである。この世界を「海」にたとえる人は少なくない。

 人は、真の意味で生きようとするとき、どうしても何か「について知る」だけでは太刀打ちできない現実にぶつかる。他者の悲しみを感じ得る心と苦しみを生き抜こうとする意志に牽引された知性、人の痛みが分かる知性もまた、開花してよいのだろう。

 神父は、浄土宗の開祖法然を深く敬愛していた。最期は、法然の生まれた場所に建てられた誕生寺の近くで亡くなりたいと希望したほどだった。法然の生涯を描いた著作で神父は人生の危機をめぐって、次のような言葉を残している。
 

 求道者の一生は、必ず一度や二度は、もし道をあやまればその人生を台なしにしてしまうような危機に直面する。それは言ってみれば、越えなければならない高い山にも似た、前から迫ってくるような困難とは全く異質なもので、先のみえない深い霧のなかで足もとから地面がくずれおちていくような、どこへどう進んだらいいのかわからないような苦悩にみちた絶望的な危機感であろうと思う。そこでは己れの力にたよることをやめ、ただひたすら合掌する以外に手だてはないのではなかろうか。

(井上洋治『法然』)

 
 この一節を読んで、自分は法然のような宗教者ではなく、求道者でもないから関係がないと思う人がいるのかもしれない。確かに宗教者である人は多くないだろう。しかし、真の意味で「生きる」という地平に立つとき、人は誰も自分の道を求める者、求道者になるのではないだろうか。

 人生の根底を揺り動かすような出来事は、誰にも起こり得る。そこでも何か「について」知った知識はあるはたらきをするし、あった方がよい場合も少なくない。しかし、不可欠なのは何か「を」確かに知ったという経験なのである。そこに生まれるものを、ある人たちは知識と区分するように叡知と呼んだ。

 大学を辞めようか迷っているとき、NHK・Eテレ番組の「100分de名著」で何度か仕事をした伊集院光さんと対談する機会があった。

 対談が終わって、余談のとき、「若い人に言葉を届けたくて大学の教師になった」と言ったら伊集院さんが驚いたようにこう語った

「えっ? 大学から出た方が、言葉は広く届くかもしれないけどね」

 そう言いながら、伊集院さんはラジオ番組に込めた思いを熱く語った。その姿を見ながら、彼の言葉をかみしめるうちに、何か肩の荷が下りたように思った。

 

※本連載は今回が最終回です。ご愛読ありがとうございました。本作品は、単行本として刊行を予定しております。

「光であることば」連載一覧

若松英輔(わかまつ・えいすけ)
批評家、随筆家。1968年新潟県生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒。2007年「越知保夫とその時代 求道の文学」で三田文学新人賞評論部門当選、16年『叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦』で西脇順三郎学術賞受賞、18年『詩集 見えない涙』で詩歌文学館賞詩部門受賞、『小林秀雄 美しい花』で角川財団学芸賞、蓮如賞受賞。他の著書に『イエス伝』『悲しみの秘義』『詩集 愛について』『霧の彼方 須賀敦子』など多数。最新刊は『詩集 美しいとき』。

「本の窓」2022年5月号掲載〉

# BOOK LOVER*第5回* けんご
週末は書店へ行こう! 目利き書店員のブックガイド vol.42 啓文社西条店 三島政幸さん