若松英輔「光であることば」第2回

若松英輔「光であることば」第2回

二度目の緊急事態宣言発令直後に若松さんが書く「死」のこと、人生における「居場所」のこと――



人生の門

 悲しみや苦しみを生きるとき、まったく励まされないのも寂しいのかもしれないが、善かれと思って投げかける激励の言葉は、かえって相手の苦しみを深めることがある。

 さらにいえば、励ましらしい言葉は、ほとんど励ましにはならない。苦しむ人に必要なのは慰めと癒しであって、「とにかく頑張れ」という言葉に象徴されるような、一方的な声がけではない。

 こう断言するのも問題があるのかもしれない。だが、自分の経験を正直に語るとそうなる。いわゆる励ましの言葉に励まされた記憶がないのである。

 しかし、言われたときには受けとめ切れていなかったが、時が経過してみると、あのとき、あの人が言った、あの言葉は、自分を精いっぱい気遣ってくれていたことの証しだった、と思い直すことはしばしばある。

 時の経過とひと言でいっても数日のこともあれば、数か月、一年、あるいは十年を超える場合もある。気がついたときには、その言葉を投げかけてくれた人はすでに、この世の人ではないことも少なくない。

 どんなに気の利いた言葉よりも、自分も苦しいことがある、とつぶやくようにいう。こうした素朴な出来事が苦しむ者には光になる。悲しみをめぐっても同質のことが起きる。悲しむ姿が、もう一人の悲しむ者を救うのである。そうした悲しみの共鳴をめぐって、哲学者の柳宗悦は印象的な言葉を残している。「悲しさは共に悲しむ者がある時、ぬくもりを覚える」。柳は、悲しさは共に悲しむ者があるときぬくもりに変じる、と書いてもよかったのかもしれない。先の言葉に柳はこう続けた。

「悲しむことは温めることである。悲しみを慰めるものはまた悲しみの情ではなかったか」(『南無阿弥陀仏』)。人は悲しむとき、熱い涙を流すことがある。この事実が象徴しているように悲しみ──苦しみもまた──は、冷えた経験ではなく、見えない炎のなかを生きるような熱の経験だといってよい。

 悲しみを胸に抱えていても多くの人は、人前では平然を装う。秘めていなければ、その熱が場の空気を一変させることを知っているからだ。こうした抑制の上に社会生活は営まれている。

 もしも、「生活」だけなら、それでもよいのかもしれない。しかし、私たちには「生活」だけでなく「人生」という世界がある。そして多くの場合、苦しみや悲しみは最初、「生活」の場で起こったとしても、かならず、その影響は「人生」の境域にも及ぶ。生活と人生は同じではない。その差異と交わりを描き続けたのが遠藤周作だった。

 彼の最後の長編小説『深い河』には、主人公の磯辺の生活と人生のありようをめぐって次のような一節がある。
 

だが、一人ぽっちになった今、磯辺は生活と人生とが根本的に違うことがやっとわかってきた。

 
「一人ぼっち」になったのは、突然分かった病で妻を喪ったからだった。それ以後、彼は、それまでの生活と、その奥にある人生を問い直さざるを得なくなる。いつまでも続くと思った伴侶との生活が突然に終わる。そして、音を立てるようにして崩れていったのは、彼の生活以上に、人生の方だった。

 男は、伴侶を喪うまで、この二者の区別がつかなかった。むしろ、人生とは生活の延長にあるものだと思い込んでいた。悲しみと当惑の先に彼が見出したのは、生活と人生は似たものではなく、似て非なるものである、という厳粛な事実だった。

 世のなかに眼をむけてみれば、過酷な環境に生きながらも荘厳な、というべき人生を生きている者もいるだろうし、どんなに豊かな生活をしていても、貧しい人生を送る人もいるかもしれない。

 生活は社会的なものであり、日常的なものである。ときに公共的であることを求められることもある。

 だが、人生は違う。それは個的なものであり、ある意味で日常の彼方、あるいは深部というべき場所を流れているものであり、容易に他者と分かち合うことができない何ものかなのである。

 もちろん、生活と人生は分かちがたく結び付いている。それは不可分の関係にある。だが、磯辺はそれが不可同──同じにはなり得ないこと──であるとも感じている。さらにいえば、彼の言葉には人生の優位という実感もにじみ出ている。

 どう生きるかということだけを考えているとき、その人の「人生」は「生活」という幕に覆われて見えにくくなる。自分にとって、あるいは、自分にとって大切な人の死とは何か、さらにいえば、人間にとって死とは何か、という終わりのない問いに直面するとき、真の意味で人生が始まるのではないだろうか。

 どう生きるかだけでなく、自分が、自分以外のちからによって、どう生かされているのかを感じるとき、人生の門がゆっくりと開き始めるようにも思われる。
 



ほんとうの居場所

 誰もが苦しみを抱えて生きている。目の前で笑っている知人も、部屋で独りになれば、その人の苦しみと向き合わねばならないことがある。このことを私たちは、おぼろげながらに感じている。

 だが、そのいっぽうで、自分が苦しいと感じるときは、この苦しみを生きているのは、ほかの誰にも分かってもらえないのではないかと思い込む。ほかの人たちは皆、うまくやっているのに、自分だけがうまくいかない。そう感じる。

 他者と打ち解け得ないと思えば、相談もしにくい。安易に相談して、そんなこともできないのか、と声に出して言われないまでも、身振りや眼差しで語られるような気がするのである。

 苦しみはしばしば人を孤立させる。孤立とは、独りでいることが苦しみに感じられる状況だといってよい。

 独りでいることが、いつも苦の経験であるとは限らない。

 本を読むとき、何かを書くとき、大切な人を思って祈るときなど、自己や人間を超えたものとのつながりを必要とするとき、私たちはあえて独りになる。独りになって、自分の立ち位置や居場所を確かめる。

 苦しみに捕らわれる。すると、この孤独の営みがいつものように行えなくなる。孤独と孤立の差異が分からなくなる。自分の居場所が分からなくなる、と感じる人もいるかもしれない。生きていることに不安を感じることすらあるだろう。

 この一文を私は、二度目の緊急事態宣言が発せられた直後に書いている。二〇二〇年の四月から五月にかけての一ヶ月強の期間、私は幾度も自分の居場所を見失いそうになった。これほどまでに自分が弱い人間だとは思っていなかった。

 書物を読み、文章を書くことを仕事にしている者にとって、仕事の時間のほとんどは孤独な時空で行われる。孤独には慣れていると思っていた。むしろ、自分の仕事を集中して行える時間になるとすら感じていた。

 だが、現実は違った。あるときまで、読むことも書くこともできなくなったのである。原因は、当時は漠然としていたのだが、今はそれがはっきりと分かる。死である。自己の死だけでなく、大切な人の死、あるいは世の人々の死という問題が、文字通り抗いがたいものとして肉迫してきた。

 もう十年以上前になる。伴侶の死を経験して以来、私は死者とはどのような存在なのかを考えてきた。ここでいう死者とは、亡くなって、もう帰らなくなった人のことではない。その姿は目には見えず、声も聞こえないがたしかに存在している「生きている死者」である。

 あの経験のあと、私にとって生きるとは、生ける死者との対話のなかに行われる営みになった。その対話は、孤独のとき、言葉を超えた「沈黙のコトバ」によって行われる。孤独は私にとって死者との交わりの時間でもあった。

 振り返ってみると、死者をめぐっては、一冊ならず、本を書いた。だが、死者とは何かを考えることと、死とは何かを考えるのは同じではない。むしろ、似て非なるものだと言えるようにすら思う。死とは何かを考えることを、私は長く遠ざけていた。あの日、経験した、耐えがたい悲痛の衝撃を想起することになるからだ。

 あの春の日々、ずっと目を背けていた死という問題が、抗いがたい事実として顕現したのである。

 人は生きつつあると同時に死につつある。死を避けることは、畢竟、生を忌避することになる。生と死という相反するものが、常に同時に営まれている、というのが私たちの日常である現実を、突きつけてきたのである。

 それにもかかわらず、生きるとは何か、どう生きるべきかという問いばかりを考える。死とは何か、どう死を深めていくべきかをほとんど考えない。こうした者にとって、死はいつ訪れても突然の出来事になる。

 死をめぐる思索が続く。それは意識の仕事というよりも、無意識の仕事であり、思考の仕事であるよりは認識の仕事だった。言語の仕事というよりは、イマージュと呼ばれる、未定型の意味のうごめきとのたたかいだった。

 こうした日々の先に見えてきたのは、じつに素朴な事実だった。人は独りでいるとき、誰かといるときとは異なる仕方で、異なる深度でつながっている、という実感だった。

 孤独は独りでいることだが、その営為は幾多の人たちによって支えられている。多くの手のなかで、独りでいたのである。

 自分の死が怖くなかったのではない。だが、それ以上に、自分という存在を在らしめている人たちに、もしものことがあったらと考えたとき、驚くほど動揺した。そして、こうした不可視な、しかし、強固なつながりを、それまでの自分が十分に感じられていなかったことを悔い、同時に、それが失われるのではないのかという恐怖にふるえた。

 人生の道に迷うのも不安だ。しかし、居場所が分からなくなったとき、困難はいっそう深くなる。道が分からなければ誰かに聞くこともできるのだろうが、居場所となるとそうはいかない。ここでいう「居場所」はもちろん、地理的な場所でも会社や組織などの帰属先でもない。人生における「居場所」にほかならない。

 それからある期間、自分の真の居場所はどこかを、まさに手探りで探すような日々が続いたが、それは容易に見つからない。

 晩年という時期になってはじめて、死がもう一つの日常であることに気がつき、居場所を探す人もいるのかもしれない。そんな男の物語として、よく知られているのが、トルストイの『イワン・イリッチの死』という小説だ。

 イワンはよく働いた。職業は役人で、ある程度の地位までいった。家庭もある。暮らしぶりも悪くない。一見したところでは何の不足もないような日々を送っているかに映る。

 だが、本人の手応えはまったく違った。積み上げてきたのはどこまでも社会生活であって、自分の人生がいっこうに深まっていない事実を否むことができなくなっていた。きっかけは病だった。自分の思う通りに生きられないと分かったとき、生きるという使命が展開する次元がまったく変わったのである。小説にはこんな言葉が記されている。
 

もう自分で自分を欺くこともできなくなった。なにか恐ろしい、新しい、非常に重大な──今までイワン・イリッチの生涯にかつてなかったような重大なことが、彼の内部で行なわれているのであった。しかし、これを知っているのは彼一人きりで、周囲の一同はそれを悟らなかった。

(米川正夫訳)

 

 人生の岐路というべきところに立ちすくむ。そんな限界状況にあることも、ほかの人の目にはまったく映らない。生活上の問題は容易に他者と分かち合うことができる。だが、人生の問題はかならずしもそうはいかない。人はときに、人々のなかにあってなお、孤独にこの問いと向き合わねばならなくなる。

 所有できるもの、評価されることをいくら積み上げても自分の胸中にある空白を埋めることはできない。最優先の問題はどんな生活をするかではなく、いかに人生を深めるのか、あるいは人生の手応えを確かめられるのかということになった。だが、生活の手応えしか探してこなかったイワンは、どこを探せば人生に遭遇できるのかが分からない。

 居場所がない、となると居場所を外部に探す。

 だが、先の一節にも「内部」という言葉があったように、私たちが眼を向けなくてはならないのも、外ではなく、内なるちからなのかもしれないのである。

 未知のどこかに居場所を探すのではなく、さまざまな状況で、自分が自分の居場所になればよい、そう語る人がいる。中国・唐の時代の禅僧で、臨済宗の開祖臨済(?〜八六六/八六七)である。彼の名をとった語録『臨済録』に次のような一節が記されている。
 

随処に主と作れば、立てる処みな真なり

 
 随処、すなわち、どの場所にあっても、自らが自己とつながることができれば、その場所が、真の居場所になる、というのである。

 この一節に出会ったのは前田利鎌『臨済・荘子』という本だった。前田は、この二人を論じて明らかにしたいのは真の意味の「自由」とは何かだったと書いている。そして自分がいう自由とは、何かからの解放ということではなく、「自ら」に「由る」ことだともいう。

 生活の使命は、外部世界で、何かとあるいは誰かとよい関係を育むことなのかもしれないが、人生の使命は違う。それは、自分自身とのつながりを取り戻さない限り何も始まらない。

 街から人の姿が消えた春の日、私に足りなかったのは覚悟でも準備でもなく、自分自身との対話だった。沈黙の声というべきものが存在していることに、「知命」の年齢を超え、ようやく思い至ったのである。

 その声は私の耳には聞こえない。目に見えないものは心眼で見なくてはならないように、そうした声は心の耳で聞かねばならない。昔の人はそれを心耳、あるいは天耳とも呼んだ。

 


「光であることば」連載一覧

若松英輔(わかまつ・えいすけ)
批評家、随筆家、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。1968年新潟県生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒。2007年「越知保夫とその時代 求道の文学」で三田文学新人賞評論部門当選、16年『叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦』で西脇順三郎学術賞受賞、18年『詩集 見えない涙』で詩歌文学館賞詩部門受賞、『小林秀雄 美しい花』で角川財団学芸賞、蓮如賞受賞。他の著書に『イエス伝』『悲しみの秘義』『詩集 愛について』『霧の彼方 須賀敦子』など多数。最新刊は『読書のちから』。
 

「本の窓」2021年2月号掲載〉

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