若松英輔「光であることば」第3回

若松英輔「光であることば」第3回

詩を書くことでいのちの燈火を燃やし続けた若松さんにとって「詩歌のちから」 とは──



静寂の音信おとづれ

 世の人々は悲しむ者を励ます。悲しむことは不幸である。早く悲しみを乗り越えて幸福になった方がよい。早く元気になれ、と激励することもある。だが、励ましの言葉は悲痛を生きる者たちにときに耐えがたい苦痛になる。必要なのは励ましではなく、なぐさめだからである。

 励ましはいつも善意から起こる。だが、悲しみは善意だけでは鎮まらない。

 なぐさめは、与えられることもあるが、自ら見つけ出さねばならないこともある。その訪れを待つのではなく、人生という地平で探り当てなくてはならないことがある。

 あるときの私にとって、詩を書くとは、生きていくための水源を掘ることにほかならなかった。詩を書くことでいのちの燈火をどうにか燃やし続けたのである。

 祈りがしばしば沈黙のうちに行われるように、なぐさめもまた、静寂のなかにもたらされる。

 なぐさめは人を変える。変わるとは、その人にとっての幸福の意味が変わることにほかならない。幸福を探さない人はいない。生きるとは、ある意味で幸福の探求だといってよい。だが、幸福とは「探求」すべきものであるよりも、「探究」すべきものなのかもしれない。

 探し求めることと探し究めることは同じではない。むしろ、対極的に相違する場合もある。探求する者は、自分が求めているものが何であるかを知っている。より精確にいえば、「知っている」と思い込んでいる。だが、探究する者にとって、探しているものはいつも、解き得ない謎なのである。もちろん、幸福もまた、そうした謎の一つである。事実、幸福とは何かという問題は解き明かされないまま、古代ギリシア哲学の時代から現代に至るまで、止むことなき探究が続いている。

 哲学者のアランは、幸福とは誰かから与えられたものではなく、自ら見出すものであるという。心理学者のエーリッヒ・フロムは、真の自己で在ることだと語る。また、アリストテレスは、自分自身を感じるだけでなく、人間を超えた大いなるものと共にあろうとすることであると書いている。

 三人三様のようにも見えるが、幸福とは、目に見えず、手にふれることのできないものである、と考えている点では一致している。目と眼は似て非なるものである。目に見えないものを探しているのなら、もう一つの眼で内なる世界を眺めなくてはならない、と詩人のリルケ(一八七五〜一九二六)はいう。
 

われわれは隣人たちに承認された幸福を高くかかげようとする。疑いようのない幸福が
われわれに顕現するのは、ただわれわれがそれをわれわれの内部において変化さすときだけなのに。

(『ドゥイノの悲歌』手塚富雄訳)

 
 誰かによって「承認された幸福」ではなく、真の幸福と巡り会いたいのなら、外部ではなく、「内部」への道を進まねばならない。そしてこの詩人は、手ではつかみ得ないものを探し出さなくてはならない、と強く促す。さらに安易な鼓舞や忠告を受け取ってはならない。あてがわれた幸福への階段は、遠からず「痩せ細って消え去る」からである、と警鐘を鳴らす。先の一節にリルケはこう言葉を継いだ。
 

愛する人たちよ、どこにも世界は存在すまい、内部に存在するほかは。
われわれの生は刻々に変化して過ぎてゆく、そして外部はつねに痩せ細って消え去るのだ。

 
 一九一二年、リルケは題名にあるように、この長編詩『ドゥイノの悲歌』を北イタリアのスロベニアとの国境近くのドゥイノで書き始めた。

 一度、この場所を訪れたことがある。リルケが詩を書いた場所は、断崖に建つ古城だった。そこに吹き来る風は、この詩に刻まれているように、今も時折、天使の声を運んでくるように思われた。

『ドゥイノの悲歌』が書き終えられたとき、すでに十年の歳月が流れていた。「悲歌」は「哀歌」と同義で、死者たちに捧げる詩歌を指す。挽歌ともいう。リルケにとって詩を書くとは、自らのおもいを表現することであるよりも、語り得ない者たちから言葉を預かることだった。言葉を持たざる者たちをリルケは死者、あるいは天使と呼んだ。
 

……風に似て吹きわたりくる声を聴け、
静寂からつくられる絶ゆることのないあの音信を。
あれこそあの若い死者たちから来るおまえへの呼びかけだ。

 
 語らざる者の「音信」は耳には聞こえない。生者の声は振動によって生まれるが、死者たちの声は、静寂によってささえられている。死者の声にふれるのを望むなら、声を発することを止め、沈黙の時空を作り出さなくてはならない。

 たとえ、その声が、耐えがたい悲痛が生み出した嘆きであったとしても、愛する者を呼ぶ慟哭の声だとしても、一たび声を鎮めなくてはならない。生者が死者を思う悲しみ、叫ぶその声が、待ち望んだ亡き者たちからの音信を自ら遠ざけることになるからである。
 



詩歌のちから

 短歌に出会った、と思ったのは、東日本大震災のあとだった。歌が、亡き者たちへの手紙であることを知ったからである。

 それまでも歌を愛読してきたが、今から振りかえってみると、ある種の鑑賞に過ぎず、今日感じているような切実な実感はなかった。もちろん、それ以前から短歌を読むことはあったし、短歌をめぐって書いたこともある。だが、歌のちからというべきものを知らなかった。亡き者に手紙を出そうと願うこともなかったのである。

 歌を詠めないから詩を書いた。詩を書かねば己れの生の重みを支えきれないと感じたこともある。今、ある種の歌は、他者の声ならぬ声のなかに、己れの未生の声を聞くように感じられる。他者の言葉によって歌われた、己れの祈りであると思われることすらある。

 同質のことは詩を書くときにもいえる。詩において「わたし」と書くとき、私はしばしば、未知なる者の声を聴く。むしろ、その声が私に詩において「わたし」と書くことを許してくれているようにさえ感じることがある。

 詩歌が生まれるとき、心を揺り動かす経験も必要だろうが、凝縮された沈黙もなくてはならない。沈黙がないところに音楽が生まれないように、詩歌もまた静謐な時空を要する。静寂を土壌にしなければ芽生えることのない詩歌の種子が、この世には存在する。悲しみの種子もその一つである。

 悲しみという固い殻に包まれた種子を芽吹かせるための「水」は私たちが流す涙だろうが、それを地上へと引き上げるのが詩歌のちからである。歌のはたらきがなければ、悲しみは心のなかでいつまでも渦巻いている。歌に詠まれることによって悲しみは天地へと放たれる。

 いにしえの時代、歌は挽歌から生まれた。呻きは声にならない。だからこそ、人は歌のちからを借りねばならなかった。歌の言葉はすべてを語らない。むしろ、三十一文字に凝縮されることから生まれる余白によってこそ、何事かを物語ろうとする。挽歌を歌う者は五・七・五・七・七の音律のはたらきに悲しみを収斂させることで、強靭な沈黙をそこに生もうとしたのである。

「古くからわが国の葬制はかなり整ったものであることが知られている。そのような儀礼のなかから、短歌的な発詠が生まれてくることは、容易に予想されることであった」と白川静は『初期万葉論』に書いている。

 葬儀はしばしば、沈黙と呻きによって覆われる。言葉の器によって沈黙と呻きを運ぼうとするとき、歌の扉が開いた、というのだろう。

 いにしえの人たちにとって、それはある種の啓示というべき経験だった。先の一節に白川はこう言葉を継いでいる。「短歌という形式もおそらく誄詞の終りに、鎮魂のために誦詠されたものであろう」。「誄詞」とは弔辞のこと、生者から死者への呼びかけである。生者は誄詞の言葉を聴くのだろうが、死者は誄詞を包む沈黙を受け取る。

『古今和歌集』では「挽歌」ではなく、「哀傷歌」と呼ばれる。この和歌集の編者のひとり紀貫之の歌も複数ここに選ばれている。「あるじ身まかりにける人の家の、梅の花をみてよめる」という詞書きが添えられ、次のように詠まれている。

 原文では各句のあいだに一字空けはなされていない。近代では会津八一が句で区切った歌を残しているが、あまり馴染みのない者には、こうした余白が歌との距離を縮めてくれるように思う。
 

色も香も 昔の濃さに にほへども 植ゑけむ人の 影ぞ恋しき

 
「梅花の色の香りが、かつてのように濃く感じられる。しかし、それを植えた人の姿は見えず、恋しくおもう心情だけが募っていく」、というのである。

 貫之は事実を歌ったのだろう。だが、優れた詩がそうであるように、短歌もまた、それが「ちから」を内包していればいるほど、時代の制約を超えた象徴性を帯びてくる。平安時代の常識を打ち破り、時代を超えて新しい「読み」を促すのである。

「植ゑけむ人」とは、土に木を植えた人であるかもしれないが、貫之の心に言葉の種子を残した人だったのではあるまいか。亡き者たちは、しばしば言葉として感じられる。亡き人が語った言葉を想い出すのではなく、死者がコトバになるのである。

 哲学者の井筒俊彦は、言語を超えた意味のあらわれを「コトバ」と表現した。死者はさまざまな姿をして、生者を訪れるが、コトバもまた、その一つである。

 新渡戸稲造と内村鑑三に師事し、全体主義がはびこる日本において、真の自由を探究し続けた政治学者──政治哲学者と呼ぶ方が彼の実状に近い──南原繁(一八八九〜一九七四)という人物がいる。戦後の混乱期、東京大学の総長もつとめた。南原は二度、妻を喪っている。彼は歌を詠む。後妻の博が亡くなったとき、南原は『瑠璃柳』という私家版の追悼文集を編んだ。そこに寄せた一文に次の一首がある。
 

わが庭に 一本咲ける 白椿 植ゑしめし人 いまはあらなく

 
 意訳すると、庭に白い花をつけた椿が一本立っている。だが、それを植えた妻はいない、ということになる。

 紀貫之も南原繁もともに、木はあるが、人はいないと歌った。詩歌においてはしばしば、不在の言葉は臨在を意味することがある。「臨在」とは、見えない何かがそこに存在することを指す。二人の歌人が亡き者たちの不在を語る歌も例外ではない。そこには死者の存在を超えた臨在が歌われているのである。
 

励ましと なぐさめが
ちがうと 知ったのは
さけがたい
人生の壁に
ぶつかったときでした

むかしの人が
たましいと呼んだ場所を
緋色の炎の姿をした
なぐさめが
そっと おとずれるのを
経験したときでした

励ましとなぐさめが
ちがうと 分かったのは
あの人が
じっとだまって
そばに いてくれたからでした

 
 目に見えないことと存在しないことは同じではない。愛する者を喪い、悲嘆の底を生きる者をなぐさめるのは、ときに死者となった、その愛する者なのである。
 


「光であることば」連載一覧

若松英輔(わかまつ・えいすけ)
批評家、随筆家、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。1968年新潟県生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒。2007年「越知保夫とその時代 求道の文学」で三田文学新人賞評論部門当選、16年『叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦』で西脇順三郎学術賞受賞、18年『詩集 見えない涙』で詩歌文学館賞詩部門受賞、『小林秀雄 美しい花』で角川財団学芸賞、蓮如賞受賞。他の著書に『イエス伝』『悲しみの秘義』『詩集 愛について』『霧の彼方 須賀敦子』など多数。最新刊は『読書のちから』。
 

「本の窓」2021年3・4月合併号掲載〉

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