若松英輔「光であることば」第4回

若松英輔「光であることば」第4回

なぜ、物を書くようになったのか。若松さんにとっての「言葉」体験とは──


 
書くことの爆発

 幼稚園に通うのが嫌だった。そのころから集団行動が苦手だった。それでもどうにか卒園できたのは、その教育方針がある特殊なものだったからかもしれない。

 カトリック天使幼稚園という名前のとおりの場所で、教会が併設されていた。園長は神父が兼任していて、「モンテッソーリ・メソッド」を基盤に据えていた。創始者マリア・モンテッソーリ(一八七〇〜一九五二)は敬虔なカトリックで、教育思想家、その影響は文字通りの意味で世界に及んだ。モンテッソーリはもともと教育者ではなかった。彼女は近代イタリアで最初の女性医師だった。

 女性が科学を学ぶのに大きな抵抗のあった時代のことである。それでも道が開けたという事実は、彼女がいかに聡明な、そして胆力のあった人物だったかも物語っている。

 精神科医として働き始めた彼女は、ある日、患者となる子どもたちと接していて、必要なのは治療だけでなく教育であることに気がつく。大学に入り直し、教育学を学び始めた。当時のイタリアには貧困に苦しむ人が少なくなかった。大人の生活的困窮は、子どもに無関係ではありえない。一九〇七年、モンテッソーリは支援を必要とする子どもたちを集めて「子どもの家」の活動を始める。この拠点が「モンテッソーリ・メソッド」の母胎となる。

 子どもはさまざまなことを生活のなかから、実践することによって学び得る。それを独力で行うことによって血肉化し得る。それがモンテッソーリの目撃したことだった。生活という学び舎の価値を彼女はけっして見失わなかった。

 そして、幼児にとって学ぶとは、大人が提供する知識を吸収することではなく、すでに種子として与えられているものを開花させようとする営みにほかならない。それがモンテッソーリの基本理念だった。その理念もまた、彼女の思考から生まれたものというよりも、子どもたちとの生活のなかで育まれた。こうして生まれた独自の教育法は、さまざまな場面で、それまでの常識をくつがえすことになる。

 当時は──現代でもほとんどの場合そうだが──まず「読む」ことを覚え、次に「書く」ことを学ぶ、という教育が一般的だった。しかし、あることをきっかけにモンテッソーリは「書く」ことの方が、より本能に近いことを発見する。

 彼女は子どもたちに、木の板にアルファベットの文字の形にみぞを彫ったものを渡す。子どもたちは自然とそのみぞをなぞる。

 子どもたちはその時点で、文字に関する特別な教育は受けていない。しかし、しばらくすると、なぞる触覚に刺激され、いつの間にか意味のある文字を書き始めるようになっていく。少し書いてみる、というのではない。文字を書ける場所があればどんなものにでも書いた。その様子を彼女は「書くことの爆発」と表現している。

 こうして言葉との関係を経験的に深めていく子どもたちの姿を彼女は「まるで子どもたちがアルファベットを吸い込む機械のように私には思えました」という。そしてこう続けた。
 

それは、文字を吸収する真空が精神の中に存在するような現象でした。この事実は驚くべきことですが、しかし、説明は容易です。すなわち、すでに子どもの精神の中に存在していた言語が、文字によって刺激され形としてあらわされることによって、子ども自身自分の言葉を分析できるようになったのです。

(『新しい世界のための教育』関聡訳)

 
 モンテッソーリにとって「学ぶ」とは、子どもたちが、自分の精神の中に存在していた言語を想い出すことだった。教師の役割はそれを助けることだった。子どもたちに不足しているものは何もない。問題はどのようにしたら想い出せるかにある。そこには明言されていないが、人間という存在への信頼がある。同じ本でモンテッソーリは、教師のあるべき態度をめぐって次のように述べている。
 

私たちがしなくてはならないことは、子どもが自分で行動し、自分の意志を持ち、自分で考えることができるよう援助することなのです。これが精神に仕えることを選んだ者のとる道なのです。その信念どおりに精神のあらわれをむかえることができるのが、教師の喜びなのです。ここに本来のあるべき姿の子どもが生まれます。

(同上)

 
 同質の態度を強調したのがソクラテスであり、プラトンだった。ソクラテスが哲学を叡知の助産術にたとえたことはよく知られている。プラトンにとって哲学とは、未知なるものを知ることではなく、すでに知っていることを想い出すこと、「想起」することだった。

 モンテッソーリやプラトンにとって教育とは、ある思想によって人間を作り変えることではなく、その人自身を顕現させる営みだった。さらにいえば、内在する完全性の発露を促す行為にほかならなかった。それは、「本来のあるべき姿の子どもが生まれます」との一節が鮮明に物語るように、ある種の新生を促すことでもあった。

 なぜ、自分が物を書くようになったのか、最近、ふとそんなことを考えることがある。

 人生を変えるような本に出会ったからだ。あるいは、自分もまた、そうした言葉の歴史に連なりたいと思ったからだ、などと思っていたが、おそらく違う。私も幼いとき、すでに「書くことの爆発」を経験していたのである。

 モンテッソーリの文章を読みながら、そうした自分の姿がまざまざとうかびあがってきた。そして同時に、木でできた、ひらがなが彫り込まれたおもちゃのみぞをなぞった触感が、半世紀の時間を超えてよみがえってきたのである。
 



言葉にふれる

 幼稚園では、本を読んで文字を覚えたのではなく、指でなぞることで身体化した。幼いころから通った教会では、『聖書』を読めるようになる以前から、誰かが朗読する言葉を全身に浴びた。振り返ってみると、そもそも言葉は文字や声といった感覚可能なものであるとは限らなかった。それは目には見えない意味のうごめきだった。言葉は私にとって「読み」、「書く」ものである以前に、さまざまな意味で「ふれる」対象として現れた。

 心の琴線にふれる、というように意味はしばしば、心に「ふれる」。何も特別なことではない。それが私たちの日常だろう。

 だが、文字は目で見、声は耳で聞き、意味は脳で認知する。それが、およそ学校と呼ばれる場所の常識だった。そのいっぽうで、学校から一歩外に出てみると、子どもは意味を認識するのは脳だけではないことにすぐに気がつく。

「ふれる」という行為を通路として、言葉との関係を築いてきた者にとって、もっとも苦手な科目が「国語」だった。それは小学校から高校まで一貫して変わらなかった。高校受験も国語の成績が悪くうまくいかなかった。大学受験も国語があった大学はすべて落ちた。

 入試が終わると新聞などに解答が掲載され、答え合わせをする。このときほど絶望的な気分になることはなかった。長文読解が悉くうまくいかない。どんなに贔屓目に見ても何か欠落があるとしか思えない。それほどに不正解が続く。

 あるときまで、その理由が分からなかったが、遠藤周作のあるエッセイを読んだときにまさに腑に落ちた。文字を読むだけでなく、そこに明示されない何かを必死に読んでいたのである。「ある年齢から──そして小説家という仕事のお蔭で、私はすべてのものの底にはいろいろなものが重なりあってかくれていることに少しずつ気づきはじめました」と書いた後、遠藤は次のように言葉を継いだ。
 

私は、作庭術は専門外ですが、地上に露出している庭石は、石のほんの一部分だけで、地面の下にはもっと大きな部分がかくれていることを庭師から聞いたことがあります。
 そしてその根石があるために、地上に顔をみせている石の坐りも、落ち着きもいいのだ、と庭師は教えてくれました。
「小説だって同じだなァ」
 とその時、思わず眩いたのを憶えています。

(『死について考える』)

 
 試験は一定のルールのなかで行われる。そこには暗黙の了解として、紙に記された文字のみを読んで設問に答えよ、という不文律がある。

 だが、私にとって試験であったとしても、目にする文章は、いつもある種の「作品」だった。それらは独り暮らす部屋で──高校時代から実家を離れて下宿をしていた──読む、あの世界の古典と同じ、文学や哲学の歴史に連なる「作品」だった。「作品」を読むときは、文字の「下」に何かを自分なりに読む。それは私の不文律だった。

 さらにいえば、人と話しているときにも沈黙のなかに意味を感じようとしていた。だから、知命を超えても社交辞令は苦手だ。静寂による確かなつながりを凡庸な言葉で塗りつぶすような悪癖をうまく遂行することができない。

「読む」とは目に見える文字の奥に、言葉にならない意味をくみ取ることである。だれに教わるでもなく、いつからかそう思い定めていた。教科書や試験問題、書店で偶然手にした一冊でもそれは変わらなかった。

 だが、そうした読書法も誤りではなかった。先の言葉に遠藤は「小説家が特に注意して選んだ言葉や隠喩は、たんにそれだけの意味ではなく、根石とおなじような、その作品の要を暗示する内容を含んでいる場合があります」と述べ、こう続ける。
 

もし上すべりに表面だけ読むなら、きわめて日常的な平板な意味にしかとれませんが、何度もそこを読んでいただくと、もっと深い、時には思いがけない作者のテーマが秘められている表現だったとお気づきになるでしょう。庭とおなじように、小説も地面にかくれている部分や、石と石とのあいだの空間(小説の場合は行間)の緊張が大切なのです。

 
「行間の緊張」という言葉は、長く言葉をつむいできた人でなくては書くことができない。もちろん、それを文字で可視的に書くことなどできない。文字と文字のあいだに浮かび上がらせるしかない。

 遠藤周作も愛読していた哲学者の井筒俊彦は、声や文字である言葉とは異なる意味の顕れを、「コトバ」と書いた。究極のコトバはあらゆる言葉を包み込む沈黙である。そして、遠藤のいう「行間の緊張」もまた、沈黙の顕現にほかならない。

 目で読み、手で書くことによって認知できる言葉があるように、「ふれる」ことによって感じ得るコトバもある。むしろ、人生の秘義は、しばしばコトバによってこそ語られる。

 今では、社会で生きていくのに必要な程度に言葉とコトバをどうにか感じ分け、使い分けることもできるようになったが、あるときまでは、圧倒的にコトバに優位性を与え、世界と向き合っていた。人の言ったことは忘れても、言わなかったことをはっきり感じることも少なくなかった。

 もちろん、こんな態度で生活していると問題も起こる。それでも自分の特異性に不満は感じなかった。それほど世界は意味の豊かなコトバに満ち溢れているように感じられた。

 自然や物も「知る」対象であるよりも「ふれる」べき何ものかだった。さらにいえば、心によって共振と共鳴を確かめる生の同伴者だった。

 このことがもっとも実感できるのは書物と出会うときである。幾人かの書き手には、その本を読む前に、ある衝撃を感じ取っていた。石牟礼道子の『苦海浄土 わが水俣病』や須賀敦子もそうだった。ともに読む前からそのページをめくれば、人生が変わるような衝撃を受けることが分かっていた。

 事実、そうなった。彼女たちから学んだ最も大切なことは闇を生き抜く態度だった。闇の奥に光を見出すことだった。

 生きる態度が物語るコトバは、しばしば語られた言葉よりも強靭である。その刻印は頭ではなく、むかしの人が「たましい」と呼んだ場所に記されるからである。
 


「光であることば」連載一覧

若松英輔(わかまつ・えいすけ)
批評家、随筆家、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。1968年新潟県生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒。2007年「越知保夫とその時代 求道の文学」で三田文学新人賞評論部門当選、16年『叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦』で西脇順三郎学術賞受賞、18年『詩集 見えない涙』で詩歌文学館賞詩部門受賞、『小林秀雄 美しい花』で角川財団学芸賞、蓮如賞受賞。他の著書に『イエス伝』『悲しみの秘義』『詩集 愛について』『霧の彼方 須賀敦子』など多数。最新刊は『「生きがい」と出会うために 神谷美恵子のいのちの哲学』。

「本の窓」2021年5月号掲載〉

蛭田亜紗子さん『共謀小説家』
長崎尚志『キャラクター』