【『ロウソクの科学』ほか】2019年ノーベル賞を深く知るための3冊

10月に発表された2019年のノーベル賞。今年は、ノーベル化学賞を受賞した吉野彰氏が子供時代に熱中した本としてファラデーの『ロウソクの科学』を挙げたことも話題となりました。2018年、2019年のノーベル文学賞を受賞した2人の作家の代表作と合わせ、2019年のノーベル賞を知るための本を3冊紹介します。

10月に発表された、2019年のノーベル賞。医学生理学賞、物理学賞、化学賞、文学賞、平和賞、経済学賞の6分野から成るノーベル賞ですが、今年は化学賞を旭化成 名誉フェローの吉野彰氏らが受賞したことも注目を集めました。

中でも話題を呼んでいるのが、吉野氏が子ども時代に『ロウソクの科学』(ファラデー)を読み、化学への興味を深めたというインタビュー。この発言を受け『ロウソクの科学』の緊急重版が決まるなど、この本への注目も非常に高まっています。

今回は、ノーベル文学賞を受賞したオルガ・トカルチュク氏、ペーター・ハントケ氏の書籍と合わせ、2019年のノーベル賞を深く知るための3冊をご紹介します。

【ノーベル化学賞】吉野彰氏の原点、『ロウソクの科学』(ファラデー)

ロウソクの科学
出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4041002842/

リチウムイオン電池の開発により、ジョン・グッドイナフ氏らと並んで2019年のノーベル化学賞を受賞した旭化成名誉フェローの吉野彰氏。吉野氏が小学生のときに担任の先生から薦められて読み、「化学に興味を抱いたきっかけ」と語ったことで話題になったのが、イギリスの科学者、マイケル・ファラデーによる『ロウソクの科学』です。2016年のノーベル医学生理学賞を受賞した大隅良典氏も、「科学者を志すきっかけになった本」として本書の名前を挙げています。

『ロウソクの科学』は、1860年のクリスマス・レクチャー(イギリスでクリスマスシーズンに伝統的に行われている科学講義)としてファラデーが講演した授業の内容をまとめたもの。ファラデーはこの講演で、誰にとっても身近なものである“ロウソク”を題材に、燃えるしくみや製法、生成物といった化学現象を多面的に解説しました。

ファラデーは6回にわたる講演を、このような言葉で始めています。

私は一本のロウソクをとりあげて、皆さんに、その物質としての身の上話をいたしたいと思います。

この宇宙をまんべんなく支配するもろもろの法則のうちで、ロウソクが見せてくれる現象にかかわりをもたないものは一つもないといってよいくらいです。

この言葉どおり、ファラデーはロウソクを用いたあらゆる実験を通して、実にさまざまな物理・化学現象がロウソク1本で説明できるということを証明していきます。ロウソクの種類や原料、炎についての基本的な説明から入り、最後の講義にあたる第6講では、石炭ガスなどを用いた実験を通じて、ロウソクの燃焼が人間の“呼吸”とほぼ同じしくみの現象であることを鮮やかに解き明かすのです。

皆さんはロウソクの燃えが悪いときには煙がでること、ぐあいよく燃えているときには煙がでないことを、おぼえていらっしゃるでしょう。(中略)
酸素中、もしくは空気中で燃えた炭素は、二酸化炭素となります。しかし、うまく燃えなかったときにでてくる粒は、二酸化炭素をつくる第二の物質、すなわち炭素を示してくれるのであります。そのものこそが、空気が十分にあるとき、炎に輝やきをあたえ、それが燃えきるほどの酸素がないとき、余った分だけが粒のまま、投げ出されてくるのであります。

ごらんのとおり燃焼がはじまりました。ほかのもの、すなわち空気から酸素をとって、私の肺の中でおこっていることとちょうど同じことが、ここではもっと急速な過程でおこなわれているのであります。

さまざまな実験を通じて化学の面白さを知ることができるのはもちろん、人間の営みの偉大さや生命の神秘にも触れることができるのが、本書の最大の魅力。10代はもちろん、理系の科目には苦手意識があるという方にも、化学に興味を持ち学び直すきっかけとしておすすめしたい、伝説的な名著です。

【ノーベル文学賞2018】『昼の家、夜の家』(オルガ・トカルチュク)

昼の家
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今年のノーベル文学賞は、アカデミー関係者の性的暴行事件によるスキャンダルのため受賞者を発表できなかった2018年の分と、通常の2019年の受賞者がまとめて発表されるという異例の事態でした。2018年の受賞者には、現代ポーランド文学の旗手であるオルガ・トカルチュク氏が選ばれました。

オルガ・トカルチュク氏は、1962年生まれの小説家・エッセイストです。1993年にデビューし、2008年にポーランド文学の最高峰であるニケ賞を受賞して以来、ポーランド文学を代表する作家として世界的な注目を集め続けてきました。2018年には『逃亡派』でブッカー国際賞を受賞しましたが、2019年現在、日本語で読める書籍はまだ『逃亡派』と『昼の家、夜の家』の2作品のみとなっています。

これらの2作品はどちらも、ゆるやかに連関している100以上の断片的な挿話から成り立っています。1998年に発表された『昼の家、夜の家』は、ポーランドとチェコの国境地帯にあるノヴァ・ルダという小さな街を舞台に、その街に移り住んだ作家と思しき語り手の「わたし」が日常生活や料理のレシピ、隣人の噂話などを綴っていくというユニークな構成です。

わたしはマルタの家に行き、小川へとつづく道端に生えたイラクサを刈ってあげた。彼女は腕組みしたまま、小走りでわたしについてきたが、そのとき、神はたくさんの生物を創り忘れた、と言った。
「たとえば、ぶらぶら、とかね」わたしが答えた。「全身は亀みたいにかたいけど、脚が長いの。歯が丈夫で、なんでもすりつぶせる。小川に生息していて、いろんな汚いもの、たとえば泥とか、枯れ木とか、村から流れてきたごみまでも食べるの」
それからわたしたちは、神の計らいか、もしくはなにかべつの理由によって、創造されそこねた動物について考えた。鳥も考えたし、地上に暮らす獣についても考えた。しまいにマルタが言った。彼女にとって、いなくてもっとも残念なのは、巨大な、動きが鈍い動物だそうで、それは夜になると十字路にすわっている。その動物がなんという名か、彼女は言わなかった。
『忘れられたもの』

エノキタケは、冬のキノコだ。十月から四月にかけて、倒れた木の上に生える。すばらしい香りと、とろけんばかりの味。(中略)
ところで、エノキタケのコロッケの作り方は以下のとおり。(中略)

タマネギにバターをまぶす。こまかく切ったキノコを加え、塩、胡椒をふり、ナツメグをひとつまみ加える。十分間炒める。このあいだにパンを牛乳にひたし、水気を切って、フードプロセッサーにかける。これに、さっきのキノコと、卵と、スメタナを加える。クレープで包み、パン粉をまぶし、マーガリンで焼く。
『フラムリナ、あるいは野生のエノキタケ』より

このように一見関係のない短い挿話が淡々と続きますが、これらのエピソードが積み重なってゆくと、しだいにノヴァ・ルダというひとつの土地に刻み込まれている記憶が立ち上ってくるように感じられます。

美容院と古着屋がたくさんある町。男たちのまぶたが、炭で煤けている町。(中略)時間が漂流する町。ニュースが遅れて届く町。名前が誤解をまねく町。新しいものはなにもなくて、現れた途端に黒ずみ、埃の層に覆われ、腐っていく町。存在の境界で、みじんも動かずに、ただありつづける町。
『ノヴァ・ルダ』より

“境界”というのは、オルガ・トカルチュク氏の作品を読む上での重要なキーワードです。本書の中にもチェコとポーランドの国境を跨いだままで死んでゆく男の挿話が登場するなど、どちらかの場所だけに存在することのできない万物の不安定さや多面性が彼女の作品のひとつのテーマでもあります。

57歳という若さでノーベル文学賞を受賞し、今後もより精力的に作品を発表していくであろうトカルチュク氏。その他の代表作の邦訳が待たれます。

【ノーベル文学賞2019】『幸せではないが、もういい』(ペーター・ハントケ)

幸せではないが
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2019年のノーベル文学賞の受賞者となったのが、オーストリア出身の作家・ペーター・ハントケ氏です。ハントケ氏は1966年に小説『雀蜂』でデビューして以来、小説・戯曲・詩・翻訳などさまざまな分野で精力的な創作活動を続けてきました。

ハントケ氏が脚光を浴びる大きなきっかけとなったのが、デビュー直後の66年、ドイツ・フランクフルトで上演された戯曲『観客罵倒』です。この戯曲は4名の役者が最初から最後までさまざまな言葉で観客を罵倒し続けるというセンセーショナルなもので、その前衛的な手法が注目を集め、ハントケ氏は一躍スターとなりました。

1987年のカンヌ映画祭で監督賞を受賞した『ベルリン・天使の詩』など、脚本家としても輝かしい功績を残してきたハントケ氏。小説家としての代表作のひとつが、母親の自殺をテーマとした内省的な作品『幸せではないが、もういい』です。

本書では、作家として作品とあくまで“即物的に”向き合ってきたと語るハントケ氏が、こと母親の死についての話となると、ただの作中人物とみなして筆を進めることがどうしてもできなくなる──という心境がストレートに綴られます。

この二つの危険── 一方では単なる再話になる危険、もう一方では、個人が詩的な文章の中でいとも簡単に消えてしまう危険── が、書くスピードを遅らせる。なぜなら、私は、一文書く毎にバランスを崩すのではないかと恐れるからである。このことはあらゆる文学的な仕事にいえるが、創作すべきものがほとんどないほど事実が強力な今のこの場合には、特にあてはまる。

“単なる再話”(ありきたりなノンフィクション)と“詩的な文章”のあいだで揺れるハントケ氏は、物語の途中で、母の死という事実を「戦争」と「抑圧され続けた女性」という典型的なテーマに重ね合わせて語ろうと試みます。しかしそれもうまくいかず、小説の言葉は徐々に断片的な詩のようになっていきます。

配膳棚の中にあった卵リキュールの瓶!
日々の手作業をしていた時の、特に台所に立っていた彼女についての、つらい記憶。
彼女は、怒った時、子供たちを殴らず、せいぜい強く彼らの鼻をかんでやるだけだった。
夜中に目が醒め、廊下の灯りがついていたときに感じる、死の恐怖。

この痛切な物語は、“のちに、このすべてについて、もっと正確なことを書くこととしよう”というハントケ氏の宣言のような言葉で幕を下ろします。

言葉にできないもの、語りえないものの言語化に挑み続けているハントケ氏の作品。今回のノーベル文学賞の受賞理由について、アカデミーは“実存的意味に対する果てしない探求”を評価したと述べています。実験的な作品、巧妙な筆致で書かれた作品が好きな方には特におすすめしたい作家です。

おわりに

例年、日本人受賞者の有無のみに関心が集まりがちなノーベル賞。しかし読書好きの方にとっては、普段あまり手を伸ばす機会のない海外の作家の代表的な作品を知るきっかけのひとつにもなっているのではないでしょうか。

2018年、2019年のノーベル文学賞受賞者は、どちらも小説のみならず、エッセイや戯曲などさまざまな分野で活躍している作家です。今後も彼らがどんな作品を発表していくのか、注目し続けたいと思います。

初出:P+D MAGAZINE(2019/11/16)

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