テクノロジーと社会不安の時代の文学【坂上秋成インタビュー・後編】

「近代文学の終わり」が叫ばれた21世紀にあって、〈文学〉は何をすべきなのか。作家・坂上秋成氏が「ゼロ年代批評」「ラノベブーム」「これからの文学の役割」について語ります!

『惜日のアリス』でデビューを果たし、2016年には注目の第二作、『夜を聴く者』を発表した、坂上秋成氏。

作家デビューまでの道のりから、社会の中の「曖昧なもの」に向けられる視線について語っていただいたインタビュー前編に続き、後編では坂上氏の批評家としての顔に焦点をあて、〈21世紀の文学〉はどんな使命を果たすべきか、お話を伺いました。

▶︎前編から読む: 新刊『夜を聴く者』の魅力について作者自身に批評してもらった。【坂上秋成インタビュー・前編】

 

『近代文学の終り』が始まりだった

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—インタビュー前編で、東浩紀さんの開催していた批評塾、ゼロアカ道場で批評と出会ったと伺いましたが。それ以来、坂上さんは批評というものに対してどのように向き合ってきたのでしょうか。

 

坂上:まず、ゼロアカ道場の道場破りで僕が提出したのが「クレオール化する日本文学」という批評です。内容を大雑把に説明すると、エドゥアール・グリッサンという思想家が言及した〈クレオール〉という言葉を自分なりに解釈して、純文学、ライトノベル、ノベルゲーム(※1)の3つを横断的な形で批評したものです。

それを当時の『ユリイカ』(※2)の編集長が読んでくれて、その後『ユリイカ』2009年2月号の「日本語は滅びるのか?」特集に「〈現地語〉文学の華やぎを見つめて–水村美苗への応答」という批評を載せていただいたんです。商業誌で批評を書いたのはそれが最初ですね。水村美苗さんの著書『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』という評論に寄せて書きました。

(※1)1990年代末から栄えてきたゲームジャンル。音と絵と文章を合わせた表現形式、PCでプレイするからこそ可能になるシステムや、個性的なキャラクターを産み出したことで、少なからぬ人がそこに新しい文学の可能性を読みこんだ。虚淵玄、麻枝准、奈須きのこ、田中ロミオといったライトノベルやアニメ脚本で有名となった人々を多く輩出したジャンルでもある。

(※2)青土社が刊行する月刊誌。批評や詩を中心に、サブカル論や現代思想まで文芸を幅広く扱う。

『ユリイカ』ではその後も漫画家の福本伸行特集や、ゼロ年代文化特集、映画監督の岩井俊二特集などで何度もお世話になりました。様々なテーマについて執筆していく中で、自分にとっての批評文のリズムや文体を掴めたという意味でも、非常に重要な経験だったと思っています。あと、最近はあまりやっていませんが、アニメや漫画といったサブカルチャーをメインにライターとして仕事をしていた時期もあります。

色々と活動してきた中で、批評の単著を出せていないということに心苦しさを感じてもいるので、小説と並行して長めの批評を書く準備もしたいと思っています。

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—なるほど、そのように様々な事象に対して批評をしてきた中で、坂上さんが軸としているテーマはありますか?

坂上:僕は、「文学の役割」というものを最優先で考えています。そもそも僕の批評のベースには、2005年に柄谷行人さんが出した『近代文学の終り』という著書の存在があるんですが、その中で柄谷さんは「1990年代の時点で、ナショナリズムを形成したり道徳性を担ったりといった近代文学の使命は終焉し、文学が社会の中で人々に影響することができなくなった。その機能をなくした文学や小説は娯楽でしかない」という風に主張しています。

それに対抗して、21世紀だからこそ可能な文学の役割を発見し、伝えていきたいというのが書き手としてのベースになっています。

 

ゼロ年代に消費された〈文学〉

—「文学はまだ終わっていない」と。この話について詳しくお聞きする前に、90年代からゼロ年代を経て、文学を取り巻く状況はどう変化し、どのような新しい可能性が生まれたとお考えなのか教えて下さい。

坂上:改めて振り返ってみると、ゼロ年代は、それまで文学とされてこなかったもの、つまり“小説の外部”に文学性を無理やり見出して社会的地位を回復させようとしていた時代のように見えます。

“小説の外部”にあるものの代表例がケータイ小説ですね。当時は速水健郎『ケータイ小説的。 “再ヤンキー化”時代の少女たち』に代表されるように、ケータイ小説について論じる書物が多く出版されました。けど、いわゆる「真っ当な」小説を読んできた人間にしてみれば、ケータイ小説のレベルで道徳性や社会的使命を担うことができないのは明らかです。

にもかかわらずケータイ小説が注目されたのは、それが女子高生たちのメンタルから、日本社会の状況を見渡せるというような、社会学的なツールとして機能していたからです。ゼロ年代には、批評が心理学化・社会学化しているということが言われてきましたが、小説についても似たようなことが言えるわけです。作者の思想や戦略を読み込むというより、出てきた小説がどのようにして社会を反映しているかという〈鏡〉としての役割が求められていた。

—確かに、ゼロ年代というと、鈴木謙介さんや萩上チキさんなど、社会学的な関心をもった若手論者が注目された時代でしたね。それから、精神科医である斎藤環さんの『戦闘美少女の精神分析』なども、オタク分析として話題を呼びました。

坂上:同時に、従来の文学とは異なるものに視線を向けようとする中で、ライトノベルやノベルゲームといったオタク文化の中に文学性を見ようとする動きもありました。

この二つに関してはとりわけゼロ年代の前半、今だったら一般受けしないだろう作品がある程度メジャーなものとして消費される回路が存在していました。とりわけノベルゲームでは、今でこそソーシャルゲームの登場によって押されてしまっている感じがありますが、当時は実験的なことをやればやるほどユーザーは面白がっていたし、ゼロ年代コンテンツのキーワードでもある“キャラクター”の問題に関しても重要な役割を担っていました。初音ミクなどが代表的ですが、ゼロ年代には創作者と消費者が一緒になってキャラクターを完成に導いていくという動きが活発だったし、そこに大きな可能性が感じ取れた。

もちろん、ライトノベルとノベルゲームという二つのジャンルは今でも興味深い作品を多く産み出していますが、やはりゼロ年代にはそれらに触れることが最先端だという空気があった。キャラクターという要素に注目して文学を語り直すことで、「現代に作られるべき意義」がそこに見出されていたんですね。それこそ筒井康隆が『涼宮ハルヒの憂鬱』に言及したり、ご自身でも『ビアンカ・オーバースタディ』というライトノベルを書いたということからも、相当な影響力があったことは分かります。

ただ、今では割とはっきりと住み分けがされているように感じますね。ライトノベルはライトノベルとして、ノベルゲームはノベルゲームとして楽しむという普通の感覚に落ち着いていて、そこに文学性を紐づけようという動きは少なくなっている。言ってみればゼロ年代というのは日本社会において気楽な時代で、それに対して10年代はより社会的不安が増大している時代だからこそ、同じようにはコンテンツを消費できなくなっているんだと思います。それは自分がカルチャー系のミニコミ誌を作っていた時にはっきりと実感しました。

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—ゼロ年代には今に比べて気楽なムードがあったからこそ、いわば「サブカル」的な表現をじっくり批評し尽くすような余裕があったのかもしれませんね。ですが、そもそもなんで「小説」という伝統のある表現形式は、21世紀に入ってから社会の中で人々に影響する力を失ってしまったのでしょうか。

坂上:それは内容やテーマの問題以上に、コンテンツの消費形態の変化が大きな理由になると思います。インターネットの普及によって、動画や音楽を容易に需要できるようになると、情報量の多いコンテンツよりも、手軽に消費できてコミュニケーションに繋げられるようなジャンルが強くなるのは自然なことです。読むのに時間がかかり、気楽なコミュニケーションにも向かない小説というメディアが時代にそぐわないのは明らかでしょう。

だからこそ、今改めて文学の役割を考えるというのならば、その役割を担うコミュニティやトライブをどこかに探し求める必要がある。それはインターネット上でも可能なのかもしれませんが、「小説家になろう」のような投稿サイトを見ていると、ある程度のテンプレに沿った物語を安全に消費するようなモードに人々は流れてしまう。

僕も明確な回答を持っているわけではありませんが、それこそ巨大な読書会だったり、文学サロンのような場所を用意して、ある程度の共通認識を持つ仲間のような人を増やしていく必要は強く感じています。

 

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