★編集Mの文庫スペシャリテ★『未必のマクベス』早瀬 耕さん

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香港・九龍島側から見たスターフェリーとifc2期棟

 昨年秋に文庫化されたのをきっかけに、早瀬耕さんの『未必のマクベス』が書店で売れています。都内の某大手書店では2千部以上という、驚異的な売り上げを記録しています。書評家など本好きの間で、近年一番の素晴らしい小説! と推す声も増えています。早瀬耕さんは、この作品がデビューから22年ぶりの第2作。その間ずっと沈黙を守っていました。いったい何者なの? という注目が、各界から集まっています。最新刊『プラネタリウムの外側』のお話もまじえ、いま最も興味を持たれている作家の実像に迫りました。

最初の小説は大学の卒業論文だった

きらら……デビュー作『グリフォンズ・ガーデン』は1992年に刊行されています。文学新人賞への応募作ではないようですが、もともと作家志望でいらしたのですか?

早瀬……学生時代は作家になりたいと思っていました。でも「なれたらいいな」というぐらいで、それほど真剣に文章修業などしていたわけではありません。
『グリフォンズ・ガーデン』は、大学の卒業論文として書き上げたものです。卒論を受け持ってくださったのは、当時からメディアで活躍されていた金子郁容教授。「あなたの学部の専攻とは関係なく、大学のなかで自分が1番だと堂々と言えるものを、やってください」と言われました。じゃあ、自分の好きなことを思いきりやってみようと、課題書で読んできた『世界と反世界─ヘルメス智の哲学』や独我論などを参考に、世界は自分しかいないのではないか? 他者は存在するのか? というデカルト由来の問いかけを、小説という形で書いて提出しました。受け取られた金子先生には、「面白い」と言っていただけましたが、それ以上の感想は、特にありませんでした。
しかし僕が卒業したあと、金子先生が『グリフォンズ・ガーデン』を出版社のどなたかに渡されたようで、出版が決まったという流れです。そのとき僕はコンピュータ関係の会社に入社しており、サラリーマンをしていました。あの作品で作家になろうとか、特に考えていたわけではないのです。

きらら……早瀬さんのお名前とともに発掘が進み、『グリフォンズ・ガーデン』も素晴らしい名作との評価が急上昇しています。この小説を起点に、プロ作家として活動される選択肢は、当時はなかったのでしょうか?

早瀬……20歳ぐらいのとき、父に「小説家の道も考えてる」と告げました。しかし父からは「小説はもう世の中に出尽くしている。新しいものはもう出ない」と言われました。けっこう納得してしまう部分があったので、作家としての自分には期待しませんでした。しかし、もし『グリフォンズ・ガーデン』が、運良く数十万部も売れていたら、プロになった可能性はあるでしょう。いまとなっては、わかりません。何しろ刊行当時は、まったく売れませんでした……。

きらら……それが信じがたいほどの完成度です。2018年の現在、ビジネス界でさかんに取り上げられている、人工知能の最先端の知見が、物語のなかに活かされています。IT革命よりも前に、20歳過ぎの大学生が書き上げたというのは驚嘆します。

早瀬……世代的に『エイリアン』『ブレードランナー』など、SF考証の整った作品を、面白く見ていました。SFの影響は、多少はあったかもしれません。同じ頃に、僕はニューアカデミズムの影響も受けていました。中沢新一さんなど、あの頃の若手論客たちの本を読みかじっていました。
また当時の通産省が第5世代コンピュータ開発プロジェクトを進めていて、「コンピュータが人間の思考に追いつくか?」という問題が、議論されるようになっていたのです。テクノロジーが進み、自動翻訳や医療診断ができるようになれば、コンピュータが人間を超えるかもしれない……みたいなSF的考察が、流行っていました。いまでいうシンギュラリティですね。そういう時代的な、さまざまな影響を基に、『グリフォンズ・ガーデン』ができました。 この小説は、ひと組の男女を軸にしたバディものです。文庫化で改稿するのは本当に大変でした。いま読むと自分ではつまらなくて……再評価されているとしたら、ありがたい限りです。

純粋なエンターテイメントとして書いた 『マクベス』

きらら……22年ぶりの第2作『未必のマクベス』が、今また大変な話題になりつつあります。やはりその間、構想は練られていたのですか?

早瀬……いえ、会社に入ってからは22年間、目の前の仕事を片付けることに専念していました。しかし体調を崩し、2014年に退職しました。辞める準備に入ったとき、ふと自然に、『マクベス』の話を書こうと思ったのです。
僕は舞台の『マクベス』が大好きで、日本での主な公演作を、10回以上は見ています。蜷川幸雄演出、野村萬斎演出・出演版など、特に熱心に見ていました。『マクベス』の後半に、「生きるか死ぬかは、舞台の上にいるかいないか程度の違い」というようなセリフがあります。そこだけではないのですが、『マクベス』の作品全体を通した、人間の観念的な解釈に、共感するものがありました。
『未必のマクベス』は、観念的な話にはせず、純粋に面白く読んでもらえるエンターテイメントとして書いたつもりです。

きらら……IT企業のエリートの主人公・中井が、香港の子会社の社長に就いたところから、スリリングな陰謀劇が展開されます。高度な企業小説であると同時に、中井の初恋の少女・冬香と、中井の現在の恋人の由記子の存在がからむ、上質な恋愛小説としても引きこまれます。

早瀬……今作は事前に、プロットを作りこんでいませんでした。『マクベス』をなぞりながら、エンターテイメントとしての要素を、てんこ盛りに詰めこんだという印象です。
冬香のモデルは、いません。年齢的には成熟しているけれど、幼稚性を漂わせています。幼稚さゆえに純粋というか、中井が人の命に手をかける罪を犯そうとしたことを、倫理的に責めたりはしません。彼女は、マクベス夫人の一部を担っています。マクベス夫人は二面性があります。夫が権力を得ていくためには手段を選ばず、夫以上に野心家で、悪行を繰り返させます。しかし最後は呵責に苛まれたのか、精神を深く病んで、命を落とします。彼女の残虐さは幼稚性の一面で、本質はとても純粋な女性だったのではないかと考えています。
『未必のマクベス』では、冬香がマクベス夫人の幼稚性を担っていて、普通の人間としての正常性を由記子が担っている構造にしています。どちらが「狂っていく」本当のマクベス夫人だったのか、解釈は読者の方に委ねます。

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主人公の旅の終わりに後悔はない

きらら……多くの謎が解けた後、中井は自ら、事件全体に決着をつけようとします。彼は望んだ人生を送ることができたのでしょうか?

早瀬……そうだと思います。物語のなかで、後悔はしていないと、僕は思っています。彼は冬香や友人、ビジネス相手との出会い、香港から始まる陰謀など、すべてを受容しています。
彼はマクベスの映し鏡の存在です。中井は物語の冒頭、マカオのカジノで出会った女性に「あなたは、王になって、旅に出なくてはならない」と告げられます。この瞬間から中井は、物語の主人公の役目を果たさなくてはいけない運命を、義務づけられたといえます。"王"となった彼は、冬香や由記子と関わり合うなかで、旅はやがて終わることを覚悟していました。彼のとった最後の決断は、必然だったと思います。
空虚という意味ではなく、中井は空っぽでした。誰かを妬んだりとか、昇進を目指したり、何かのゴールに向かって努力するような人間的な感情とは無縁でした。幸せな結婚生活など、できません。それでも、後悔はなかったはずです。幕が下りるそのときまで、物語の中心にいることが課せられた役目であり、彼は"王"の運命を、自分の意志で、成就させたと思います。

足元がぐらつく感覚を小説で伝えたい

きらら……最新刊『プラネタリウムの外側』も、非常に面白かったです。新開発の会話プログラムを題材にした、恋愛連作集となっています。

早瀬……『グリフォンズ・ガーデン』の世界観と通底しています。でも、本作だけでも充分に楽しんでもらえると思います。
人工知能のテクノロジーを通して、人間とは何だ? という大きな問いかけをしたいわけではありません。好きな相手が何を考えているのか、誰だって知りたいはず。そういう普通の感覚に根ざした、恋愛小説のつもりで書きました。 『グリフォンズ・ガーデン』と同じという意味では、「不確かさ」を大事にしました。飛行機が乱気流に入ったり、ジェットコースターが頂点から落ちる、あのふわったとした瞬間を、表現したい。足元がぐらつくというか、例えば止まっているエスカレーターを上がっていくとき、何ともいえない奇妙な感じがありますよね。確かさの揺らぐ、あの感覚を小説で伝えたいです。

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きらら……22年の年月を経て、作家活動が本格化されたと思ってよいのでしょうか?

早瀬……いえ、まだまだです。『未必のマクベス』の単行本発表から『プラネタリウムの外側』まで、3年以上もかかっています。プロの仕事というには、厳しいでしょう。

きらら……早瀬さんの次回作を熱望する声は、日に日に高まっています。

早瀬……期待していただけるのは本当にありがたいのですが、次回作の構想は、まったくありません。執筆のご依頼も、いまのところすべてお断りしています。自分は書くネタを常に溜めているのではなく、書きたいものができたときに、書き始めるタイプの作家かもしれません。
会社を辞めてから、ほとんど休まずに書き続けていました。現在は少し休んで、小説を読むのを、楽しんでいます。あらためて、小説は面白いですね。ぼんやりと、今度はもっとわかりやすいハッピーエンドの物語を、書きたいと思っています。誰が見ても明るいハッピーエンドで、退屈しないものを、書いてみたいです。
『未必のマクベス』が出たとき、『グリフォンズ・ガーデン』を覚えてくださっていた読者の方がいて、感激した覚えがあります。何年後かわかりませんが、また次の小説をお待ちいただけたら嬉しいです。

(写真はすべて、早瀬耕さんによる撮影)
mihitsuno
ハヤカワ文庫JA
早瀬 耕(はやせ・こう)

1967年東京生まれ。著書に『グリフォンズ・ガーデン』『未必のマクベス』『プラネタリウムの外側』。

〈「きらら」2018年8月号掲載〉
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