『十二月の辞書』刊行記念 早瀬 耕インタビュー

『十二月の辞書』早瀬耕インタビュー

未必のマクベス』が文庫化を機に、読書好きの間で話題となった早瀬耕さん。このたび8年ぶりとなる新作『十二月の辞書』が発表された。本作で読者に伝えたかったテーマとは何だろうか。


コロナ禍がきっかけで生まれた恋愛小説

 2018年に発表された早瀬耕の『プラネタリウムの外側』は、死者と生者のつながりを繊細に描き出し、SFのジャンルを超えて評価を集めた。今回の新作『十二月の辞書』は、『プラネタリウム~』と舞台を同じくする短編をベースにした長編だ。

「本作は、短編連作集『プラネタリウムの外側』の第3話と第4話の間に入るエピソードとして書き下ろした短編小説を原案としています。ただ、SFの要素がなく、『プラネタリウムの外側』のテーマにそぐわないということで、短編集には収録されませんでした。このため『プラネタリウムの外側』では第3話と第4話の間で、今作の登場人物である南雲薫と佐伯衣理奈の関係に連続性がありません。突然、第4話でふたりが良好な関係になっています。だから、機会があれば、南雲と佐伯の関係を書籍の形で残したいという思いがありました」

「また、新型コロナウイルス感染拡大による外出制限で、ぼくは、ほとんど外出する機会がなくなりました。ぼくの性格もありますが、『不要不急の外出を控えなさい』と言われると、まったくと言っていいほど外出する必要がなくなってしまいました。外出しなくなって気づいたことが、ぼくは、旅行先や買い物で街を歩くときに、自分で考えている以上に人の観察をしていて、その人と関わることがなくても、そこから勝手に彼らを登場人物にした物語を膨らませていた、ということです。
 外出制限でそれができなくなり、苦肉の策で、すでに確立したキャラクターたちで小説を書くことにしました。ウイルス感染状況が終息しない現状では『それしかできなかった』というのが、本作を書くきっかけです」

 本作では『プラネタリウム~』に登場した、北海道の大学でAIを研究する助教・南雲の、高校時代に結婚を約束した女性との過去が明かされる。南雲は子どものころから、他人とのコミュニケーションが不得意な青年として描かれる。魅力的なキャラクターの10代の恋愛エピソードは、前作までのファンには興味深い内容だ。

「南雲は、ぼくの中では確立した登場人物です。ぼくは、ストーリーラインを組み立てるのが苦手ですが、南雲の行動や会話を考える作業は苦労しませんでした。南雲は他人を簡単に信頼できない性格なのに、『プラネタリウムの外側』の後半では佐伯とバディといえるような関係を築けています。本作では、佐伯との信頼関係を築いた経緯や、お互いに好意を持ち始める過程を、南雲を語り手として記しています」

 『十二月の辞書』は、『プラネタリウムの外側』のスピンオフストーリーにあたり、春休み中の大学生・佐伯衣理奈と旅行先で遭遇し、バディとなる信頼関係を築いていく過程が描かれている。

「本作は、時系列からすると『プラネタリウムの外側』の中間に位置するエピソードです。けれども、そこからは切り離した恋愛小説として読んでもらえれば幸いです。『プラネタリウムの外側』と併せて読んでもらえれば、本作にもSFの要素は含まれているのでしょうが、SFではありません。本作では、現代(2010年代)で実現していない技術はギミックとして使用していないし、主題にも絡めていません」

絵を見つけてほしいけれど、見つかってほしくない

 南雲はAI研究の傍ら、副業でオンラインサービスを運営し、多額の利益を得ていた。お金はあるけれど本業の研究の成果は上がらず、大学での次期の契約は未定。研究パートナーだった友人も急逝する。
 憂鬱な日々を過ごしている南雲のもとに、かつて婚約していたガールフレンド・栗山から15年ぶりに連絡が来る。栗山は高校を出てから絵の道に進み、現在は「リセ」というペンネームで、全国的な人気のイラストレータになっている。彼女は、ある依頼を南雲に持ちかける。

「久しぶりの電話の時点で、栗山はアーティストとしてスターダムに上りつめており、南雲は一介の研究者のままという対照的な関係は原案の短編小説の段階から変えていません。ふたりの現在の立ち位置に差がついていればこそ、南雲は栗山からの依頼を受けやすいのではないかと思いました。南雲が大学で昇進していくエリートコースに乗っていたら、栗山からの頼みは断っていたかもしれません」

 栗山の依頼とは、逝去した父・深島清史郎が遺したという、娘を描いたポートレイトの捜索だった。深島は家業である地方銀行の経営を継いだ資産家で、栗山は深島の私生児だった。
 南雲は、高校時代に一度だけ、深島と対面している。栗山だけでなく、その父親とも縁浅からぬ間柄だった。

「イラストレータとして成功している栗山は、深島が自分のポートレイトを描いたことをほぼ確信しています。けれども、複雑な関係にあった父親の絵画の技量を知りません。『技量を知らない』というか、銀行経営者としての父親しか知らない栗山は、彼が描いたポートレイトを『アマチュア画家の絵』として見下している面もあります。また栗山が私生児であったことから、ポートレイトが深島家の遺族には隠されていると想像しており、深島の家族と私生児としての自分の関係を象徴するような状態で見つからないことを願っています。そこで、栗山は自分の心情を理解してくれているはずの南雲に絵の捜索を依頼します。依頼に際しても、南雲にしか伝わらない、あるメッセージを隠して、慎重に言葉を選びます」

 深島のポートレイトの制作には、若いころの南雲も、間接的に協力していた。いくつもの縁に導かれ、南雲は昔の恋人のポートレイト探しに臨むことになった。
 その前段に、示唆的に登場するのがナガサワユウコ=長澤優子だ。

才能を発揮できていない若手研究者へのいらだち

 長澤は、「人間らしさとは何か?」を問いかける対話を南雲と交わし、彼の思考に重要な影響を与える。

「長澤優子は、デビュー作である『グリフォンズ・ガーデン』の登場人物で、『プラネタリウムの外側』にも1センテンスのみ登場します。ただし、長澤優子は、本作の絵の捜索とは直接関係しません。彼女は、高校生の南雲と偶然に出会っており、南雲を観察する存在です。本作ではストーリーラインから外れた登場人物で、南雲の理解者のひとりです」

 長澤の興味は、南雲の上司で、尊敬する教員でもある大学教授・藤野奈緒とも重なっているようだ。

「南雲は長澤と最初に出会った後に、藤野の大学講義に潜りこみ、彼女の指導歴のなかで唯一、A評価を与えられます。藤野にも長澤にも、南雲は特別な才能を見いだされている設定です。しかし現状の南雲は、ふたりを失望させています」

 南雲は彼女たちの期待に見合うほど、AI分野で活躍はしておらず、副業での収入がなければ生活さえおぼつかない。副業は優れたシステムで動かしているが、その検証作業を怠り、本業へのフィードバックができていない状態だ。

「友人が亡くなったり、真面目なだけでは昇進できない大学組織の構造上の問題など、いくつかの現実に、藤野は同情していますが、研究者として突き抜けない南雲にあきれています。藤野は、南雲はいつか自分を追い抜いていくだろうと認めています。けれども、冒頭のドライブのシーンで記すように、いまだに『ついて来なさい』という上下関係のままです。研究職としての才能を活かせていない南雲へのもどかしさと、叱責する思いは、優しくも厳しい態度にあらわれています」

 南雲へのいらだちと愛情の混じる感情は、後に行動を共にする佐伯にも、共通しているだろう。

いつか南雲を追い抜いていく秘められた才能

 見つけるべきポートレイトは、深島がアトリエとして使っていたはずの家のどこかにあるらしい。その家には深島の外孫である佐伯が、以前から出入りしていた。南雲と佐伯は、お互いの知恵を活かし、一緒に深島の遺した絵を探すパートナーとなる。

「本作での佐伯の南雲に対する感情は、恋愛に至っていません。自分の通う大学の教員という認識はありますが、南雲の回りくどい言い回しや、自分を子ども扱いする態度に多少の不満を感じています。研究者としても能力を見定めている最中で、そのことは『南雲先生』ではなく『南雲さん』と呼ぶことにもあらわれています。自分と同じぐらいの頭脳レベルの年上男性で、目的を達成するために、いちおう頼りにしている感じです。ときどきいらつきながらも、決して不快には思っていない。ちょっと気になる親戚のお兄さんを遊び相手として独占したいという、年の離れた子どものような気持ちが読者に伝われば幸いです」

 佐伯は南雲の研究テーマにかかわる話に対等に渡り合い、ときに南雲をからかってみせたり、女性キャラクターのなかで、ひときわ愛くるしい魅力を振りまく。何だか放っておけない南雲のコミュ障ぶりと、根は誠実な人柄を立たせるヒロインだ。

「南雲からすれば、佐伯は学部生のひとりに過ぎませんが、AIの研究職に就いて10年ほど経て、それなりに学生の潜在能力を見抜く力は磨かれています。いまはひよっこでも、佐伯が素晴らしい才能を秘めている可能性を感じています。佐伯は自覚していませんが、研究者としての潜在能力は南雲を超えている設定です」

立場が違うからこそ信頼関係が明確になった

 早くから目標を実現し、世に出ることができたリセ=栗山も、南雲にさまざまな思考の機会をもたらす。高校時代の懐かしい恋人というだけでなく、人付き合いのうまくない南雲の内面を、いまも誰より理解している。南雲が佐伯に言うだろう言葉を先読みして当てるくだりなどは、恋人同士だったころの相互理解を残しながら、大人の信頼関係がうかがえる。

「栗山は南雲に対して恋愛感情を残している設定ですが、表には出しません。彼女は恋愛よりも、仕事に集中する生活を選んでいます。イラストレータとして作品をつくり続け、名誉も財も得ました。顧問弁護士を雇えるまで成功しています。でも、わき目も振らず仕事だけをやってきて、大人になっても世間知らずのままです。深島の人間関係や周辺の事情にも関わろうとしない。高校時代で時が止まっているというか、どこか浮世離れしています。それぐらいの集中力でやりたいことに打ちこんでこなければ一流のポジションには行けないことをあらわす象徴です。研究の仕事で評価される将来を諦めかけている南雲とは対照的な存在です。南雲の限界を知らしめる厳しい存在とも言えますが、現在のステージが違うからこそ、時が過ぎても変わらない、お互いの信頼を明確にしたい意図がありました」

 リセは、深島の遺したポートレイトの捜索を頼めるのも、謎を解き明かして見つけられるのも、南雲しかいないと信じていた。結婚はしなかったけれど、出会いからずっと、ふたりは信頼しあっていたと考えられる。

「南雲と栗山はベターハーフだったかもしれませんが、実際の結婚には向かなかったでしょう。夫婦として支え合うより、自分のやりたいこと、また仕事で上のステージへ行くための意欲を、ふたりとも優先する性格です。夫婦が必ずしも支え合う必要はないのですけれど、パートナーとの関係を犠牲にしてでも、やり遂げたい仕事がある。そういうものがある人は、結婚しても長続きしないでしょう。とくに南雲は、スターダムにいる栗山に対していつまでも引け目を感じ、コンプレックスを拭えません。嫉妬というわけではないでしょうけれど、栗山のようなスターにはなれないことを、心の底ではひがんでいます。映画監督と俳優のように、特殊な同業関係ならばうまくいったかもしれませんが、南雲と栗山には無理だったという設定です」

 彼らの今後の関係は、よりを戻したりせず、やはり「元」恋人だという。

「恋人として交際している期間は、お互いのサポートで遠くに飛ぼうとした、発射台みたいな関係として書いたつもりです。けれども高く飛べたのは、栗山のほうだけでした」

 その現実を突きつけられた南雲のやり切れなさは、深島の遺したポートレイトと、奇跡的にリンクする。

狂気をもって立ち向かわないと本質には届かない

 深島は経営者になる以前、芸大で学び、画家を目指していた。家庭の事情でビジネスの道へ進まざるを得ず、画業を断たれた過去を持つ。アトリエの代わりとなる家で誰にも知られず、独自の技法で娘=リセのポートレイトをつくりあげた。それは特殊な「鑑賞方法」でなければ見ることのできない、画家・深島の執念の作だった。
 この絵の表現方法は、過去のどんなSFにもミステリーにも、描かれていないと思われる。佐伯の引き出したヒントから、その精緻に仕掛けられた謎を南雲が突き止める場面は、本作の感動的なハイライトだ。

「深島は、自分のルールに従う原理主義者でした。家族に対して守るべき秘密は守り、やるべき仕事のために軌道に乗りかけていた画業を捨てました。その厳格な原理主義のおかげで、ビジネスで成功できました。同時に厳格さは、彼自身が持つ愛情の深さの裏返しでもあったと思います。仕掛けを施した『鑑賞方法』を含め、深島でなければ描くことのできなかった肖像画は、いびつなかたちでしか育てられなかった実の娘、つまりリセを深く慈しむ思いの結晶として表現しました」

 また、ポートレイトには同じ芸術家として、絵の道を究めようとするリセへの、厳しいメッセージもこめられているという。

「生前の深島は、リセの実力は、まだ半人前だと思っていました。リセはマネタイズでは成功したかもしれないけれど、画家としてのレベルは一流の域には届いていないと、深島は評価しています。自分の遺したポートレイトのような、突き抜けた執念と集中力で絵を描いているのか? と、問いかけたいのです。売れっ子イラストレータとしての安定に甘んじてはいけない。もっと危ないところへ行きなさい。タイトロープを渡りなさい。それが他人を押しのけて目標を達成した者の責任だという、親ならではの激励を、ポートレイトを通して伝えてようとしています」

 たとえどんなリスクを負っても、与えられた仕事に立ち向かえ。その思いは藤野と長澤が南雲に注いでいる気持ちと、相似関係となっている。

「AI研究の道を進むのは、本来、正気の沙汰ではないのです。どこかでヤバさをもって没頭しなければ、生き残ることはできないし、知性の本質には届かないのだと、藤野たちは伝えています。一方、経済的な心配にとらわれず、自由に生きてほしい。それが深島からリセに託した願いであり、南雲にとっても、研究職を続けるうえで新たな指針となる象徴として読者に伝われば幸いです」

 物語の冒頭に、栗山によって「だれかが振り子をながめて、『神がこういう具合に動かしている』と思ったとしよう。さて、神にだって、一度くらいは計算通りにふるまう自由があるのではないだろうか」という、ウィトゲンシュタインの断片的な文言が示される。その文言は物語の後半、深島のメッセージを受け取り、前へ進み出した南雲たちの姿により、見事に回収されたように思える。

「この文言については、校閲の方と解釈が分かれました。自信がなかったので校正作業の後半で記述を大幅に直し、担当編集者に迷惑をかけてしまいました。どのようにも解釈できる一文で、南雲がどのように解釈したかはぼやかしています。ぼくの解釈とは正反対かもしれない。いずれにしろ南雲は、深島のポートレイトを介し、かつての恋人や年下のバディと関わることで、自由に動き出す勇気を取り戻せた設定です」

リーダブルに洗練された上質な恋愛小説

 ラストは南雲とリセ、佐伯の不思議な三角関係が先へ続いていくと想像され、非常に余韻深い。『プラネタリウムの外側』など、他の作品とクロスオーバーする南雲の物語は、今後も期待したいところだ。
 多くの哲学的なモチーフや、情感あふれる繊細なセリフの応酬など、これまでの早瀬作品の魅力は踏襲されつつ、物語はリーダブルに洗練され、上質な恋愛小説に仕上がった。『十二月の辞書』は、秀作ぞろいの早瀬のキャリアに、さらなる飛躍をもたらしそうだ。
 さまざまなモチーフを散りばめた恋愛小説は、寒い冬に胸を優しく温める。最初の数ページを読めば、最後まで一気に引きこまれること必至の長編だ。

(取材・文/浅野智哉)


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早瀬 耕


早瀬 耕(はやせ・こう)
1967年東京都生まれ。1992年『グリフォンズ・ガーデン』でデビュー。他の著書に『未必のマクベス』『プラネタリウムの外側』『彼女の知らない空』など。

  

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