ゲスト/ブレイディみかこさん◇書店員が気になった本!の著者と本のテーマについて語りまくって日々のモヤモヤを解きほぐしながらこれからの生き方と社会について考える対談◇第5回

自分と違う状況に置かれた他者の気持ちを想像する力、「エンパシー」。ロングセラーとなっている『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』に登場したこの聞き慣れない言葉は、今日的なさまざまな問題を解決するキーワードとして日本で注目された。しかし、エンパシーは万能ではなく、危険な側面もあるという。イギリス在住のブレイディみかこさんに、何者にも支配されず、「私」が「私」として生きるためのエンパシーの身につけ方を聞いた。
『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』はポジティブな本じゃない
花田
『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』は、大ヒットした『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(以下『ぼくイエ』)の副読本という、ちょっと珍しい立ち位置の本ですよね。日本人にはあまりなじみのない【エンパシー】という概念についてブレイディさんご自身が研究・解説を尽くされた一冊です。そもそもエンパシーは辞書だと感情移入・共感などと記述されていますが、『ぼくイエ』では「誰かの靴を履くこと」としてこの言葉が紹介され、そこに特別に感銘を受けた人が多かったと。
そもそもこの本を書くきっかけとして、本の中でたった数ページだけ使った「エンパシー」という言葉がウケて独り歩きし、ときに「エンパシー万能」「エンパシーがあればすべてうまくいく」というような受け取り方をする人が多かったことに危機感を持った、と書いていらっしゃいましたが。
ブレイディ
そもそも『ぼくイエ』っていう本自体が、あまりにおめでたいハートウォーミングな話と取られてしまった気がしました。貧困や格差、子どもの家出など深刻な問題提起をしたつもりだし、あの本の中でだって本当は何ひとつ解決しているわけじゃない。なのに、単なる多様性のいい話、希望の話、少年たちが困難を乗り越えていく話、というふうに語られていることが自分ではつらかった。それがエンパシーという言葉と合わさって、「他者を思いやる気持ちさえあれば、エンパシーさえあれば大丈夫。分断は乗り越えられる」と捉えられているのはちょっと危ないな、っていう思いがありました。
花田
たしかにこの本を読む前は自分も「エンパシーって最高じゃん」と考えていたので耳が痛いです……。でも、なるほど。そんなさわやかな感動本じゃねえぞ、というお気持ちがあったんですね。
ブレイディ
はい。だからちょっと反旗をひるがえしたかったというか。
花田
エンパシーという言葉がそうやって闇雲に良いものとして広がっていってしまったことへの責任感、みたいなものもあったんですか?
ブレイディ
責任感っていうか使命感っていうか、それもあるけど、いや違うんですよって言いたかったっていうのが一番大きかったと思います。それにエンパシーについて本当にこれだけ知りたいっていう人がいるなら、もうちょっとどんな議論があるのかとか、エンパシーって実はヤバいんだぞってことを日本語でも書く人が出てくるんじゃないかと思って待ってたんですけど誰も書かないから(笑)、じゃあ自分でやるか、みたいな。
自分の意見を持つためのイギリス的教育
花田
まだこの本を読まれていない方のために、本の中で最も重要である「コグニティブ(認知的)・エンパシー」と「アナキズム」、このふたつの概念について、ブレイディさんの定義をお伺いしてもいいですか?
ブレイディ
エンパシーにもいくつか種類があるんですが、エモーショナル・エンパシーがいわゆる日本語の「共鳴」に近くて、「わかる〜」「いいね〜」という気持ちから入る感覚なのに対して、コグニティブ・エンパシーっていうのは、気持ちからは入らない。特にかわいそうとも思わないし意見も違うかもしれないけど、その人の状況を想像してみる知的能力というか知的作業、要するにスキルですね。スキルだから、訓練すれば伸びていく。
一方、アナキズムは、「すべての支配の拒否」だと私は思います。何者にも支配されたくないという意思。たとえば私自身でいえば子どもや配偶者に私を支配させたくないし、会社、学校、もっと大きな話でいえば国家とか宗教とかEUとか。そういうすべてに自分を支配させることを拒否するのが、アナキズムだと思います。
あと、アナキズムっていうとなんでも一切合切ぶち壊すみたいな、ともすれば暴力的で無秩序、そういう過激なものだと思われがちなんだけど、実は相互扶助っていうのもアナキズムの根本にある。国とかに頼らず、自分たちで勝手に社会を回します、人に言われなくても勝手に立ち上がって助け合います、っていうのもアナキズムの考え方ですね。
花田
なるほど。日本で普通に暮らしているとそもそもアナキズムという言葉を使う機会があまりないですね。で、この本を読んでアナキズムについて改めて考えたときに、自分の中のアナキズムを肯定されたような気がしてうれしかったんです。10代の頃はとにかく学校とか親と合わなかった。それは学校も親も、とにかく自分を押し込めることだけを重要視していて。制服・髪型から、将来も安定して成功することが大事である、っていうことだけをひたすらしつこく言い続けてきて、自分がそれについての疑問や反論を伝えても、彼らが顔色を変えることはなかったです。
ブレイディ
私も高卒で高校まで日本の進学校に通っていましたが、ほんとうに合わなかったです。
花田
アナキズムと教育っていうのは意外と近いところにあると本の中で書かれていて、これを読むまではそんなことを考えてみたこともなかったんですけど、確かにつながっているんですね。人を画一化していく、同じにしていくことが支配する教育につながって、支配者は便利であるということもすごく実感を込めて納得がいきました。過去のことをいろいろ思い出して、読みながら怒りで座っていられずに立ち上がってしまったくらいです(笑)。
ブレイディ
イギリスで保育士をやっていたこともあって、日本の保育園を視察させてもらう機会があったのですが、ほんとうにイギリスの保育園はもっと自由にやってるので、日本の保育園の子どもたちがみんな同じように立って、同じように楽器を弾いて、同じように黙っている姿が信じられなかった(笑)。それを見て自分も日本の教育に画一的にされた感覚がフラッシュバックしましたね。日本ははみ出したら怒られるじゃないですか。子どもが人と違うことをしてみたいと思うのは、人間のクリエイティビティの始まりらしいんですよ。でも日本じゃ迷惑だから人と違うことをやらないで、ってことをまず教えられますもんね。最初はハサミで切るって言ってるんだから勝手に先に色を塗らないで、って。
花田
ほんとうに。全く同じ資質を持って生まれたとしても、日本で教育を受けるのとイギリスで教育を受けるのではだいぶ卒業の時点で差がついてしまってるでしょうね。いや、その前にもう心がボロボロに折れてしまって立ち上がれないかも。
ブレイディ
日本ではクリエイティブな子ほど叩かれ続けるから、傷が深いし生きづらいでしょうね。
『ぼくイエ』を育児本だと捉えている人もいて、どうやったらあんな子どもが育つんですか、と言われるんですけど、私は何もしてないんですよ。本を読んでもわかると思うんですけど、私は話を聞いているだけ。だからあの子を育てているのは──あの子だけじゃない、あの子の友達もみんなそうですけど、イギリスの教育であり、社会なんですよ。だから今のイギリスの教育と社会が合わされば、ああいう子どもが育つっていうだけの話であって、あれは家族の話とか子育ての話じゃないんですよね。私はイギリスの「社会」を書きたいというのは、ずっとあるので。
自ら考えて行動するっていう点でいえば、うちの息子だけじゃなく、息子の友達もみんなそう。もう大人だし自分の意見をちゃんと持っている。だから子ども同士の話を聞いてても面白いんですよね。へえ、そう考えてるんだ、と感心したりして。しっかり自分の考えを言える子どもをイギリスは意識的に育てていると思います。
花田
もちろん、日本式の教育のほうがお好みっていう方もたくさんいらっしゃるんだと思いますけどね。
ブレイディ
ああ、それはたくさんいらっしゃるでしょうね(笑)。
「I」でしゃべれない日本の会話
花田
日本人の会話の中に「I」っていう主語がないことが気になるんです。
たとえば「捨て犬だ、かわいそうだね」と会話の中で発するとき、かわいそうだと感じているのは自分なのか、犬なのか、あるいは相手に同意を求めているのかというところがすごく曖昧ですよね。曖昧というか、三者は同じ感情であることが前提で。
これは職場で若い子と話していてもよく感じることなんですけど、「上司がこう言っているんです。上司はひどいですよね?」と話が始まる。いや、あなたがひどいと思ったということね、というふうに確認しても、いや上司はどう考えてもひどいじゃないですか、みたいな感じで「私」がない。私にとってのひどいはあなたにとってのひどいと一緒であるっていうことが常に前提として話されているんですよね。私はこう思った、私はこうしたい、というのではなく、これはいいのか、世間で許されるのか、正しいのかどうか判断してくれませんか、できれば同意してくれませんか、っていうような話し方をするんですよ。
ブレイディ
わかります。私も日本の人と仕事で話しているときにたまに同じことを感じますね。
花田
ブレイディさんが、ときにエンパシーが良くない方向に作用してしまうということを書いていましたが、日本人的なエンパシーの副作用というか。自分の靴の所在がはっきりしていなくて靴の脱ぎ履きがないから、他者の靴を履くも何も、まず自分の靴がわからない。そもそも靴というものが居酒屋でトイレに行くときのスリッパみたいな感じになってるんですよ(笑)。
ブレイディ
それね、私も実はすごく考えたことなんですよ。なんでこんなにもエンパシーという言葉がウケたのかな、と。それで今回の本で特に女性から「刺さった」というような感想を多くもらうのが10章のエンパシー搾取について書いた部分なんですよね。いつも配偶者や子どものケアをしていると、常に他者の靴を履いている状態だから他者の人生が自分の人生になってくるし、だから子どもが失敗したら自分のせいだと思うし、配偶者の仕事がうまくいかないと自分が悪いんじゃないかと思ってしまう。ほんとうはそうではないのにそのあたりが曖昧になって、エンパシー搾取されてしまう。
つまり、エンパシー能力が育っているがゆえに、他者の靴を履いて自分の靴を見失っているのかもしれない。自分がないということはすごい苦しいことなんですが、でも自分をなくしたのは、これまでの「人と同じことをして画一的に生きていきなさい」っていう教育の〝成果〟でもあるわけですよね。だから「私はこう思っている」という言葉が出てこなくて、何か話すときも一生懸命に「ひどいですよね」というシンパシーをまず求めてしまうんでしょうね。
花田
以前、北朝鮮から脱した方のノンフィクションを読んだとき、脱北した後の韓国の授業で、著者が好きな色を聞かれて答えられないシーンが非常に印象的でした。今までひとつの正解がある勉強しかせず、自分の意見を問われたり自分を表現することがなかったので、好きな色、という質問の意味すらわからなかった。先生が「私の好きな色はピンクよ」と助け舟を出してくれてやっと自分も「私もピンクが好きです」と答える、というシーンなのですが。でも日本が北朝鮮になりつつあるというか、そういう状況になっていますよね。
ブレイディ
そういえば私も去年、日本の生放送のテレビにリモート出演したときに、イギリスのコロナの状況はどうですか、って聞かれて、「ロックダウンになりましたから、みんな仕事もできないし。でもイギリスの場合は休業補償がちゃんと出てますし」と言った後、「日本はまだ出てないらしいですね」って言ったら、音声がなぜか消えたんですよ。
で、そのときツイッターでは陰謀論というか、「テレビ局が消したんだ」とかたくさんの人が盛り上がってて、私は単なる偶然だと思って笑っていたんです。が、次にその局の別の番組に出たときに笑い話としてプロデューサーに話したら、すごく真顔で「それたぶん偶然じゃないですよ」って。
花田
えー! こわ……!!
ブレイディ
私も全身鳥肌が立ちました。私はイギリスに四半世紀いるから、日本のNHK的な立ち位置であるBBCとかですら政権批判をするのも日常茶飯事だし、ニュースでもバラエティ番組でも政治について侃々諤々と言い合っているのは普通のことだから、そんなこと想像もできなかったんですよ。ほんとうに今の日本って北朝鮮みたいになったのかと思ってゾクッとした。でも、それがさらに怖かったのが、その人に「どうしてそんなことするんですか、政治的圧力がかかってるんですか」って聞いたら「とりあえず面倒くさいからじゃないですか」って。
花田
うんうん、ことなかれ主義なんですよね。「なんかよくわからないけど危ないかもしれないからやめておこう」みたいな考え方こそが、ほんとうにじわじわと自分たちの首を絞めている。それはもう積極的に首を絞めてくる人、要するに積極的に政権擁護の人もたくさんいるんですけど、それとはべつに、大多数の人たちの「なんとなく言わないほうがいいみたい」とか、「過激っぽくなってしまうから」「クレームが入るかもしれないから」っていうことの、その腐敗の根深さはすごく感じています。まあそれが今の日本の抑え込み教育の〝成果〟なんでしょうけどね。
ブレイディ
よく就活の時期になったら毎年話題になりますけど、やっぱり就職活動するときのあの女子のスーツ姿とか異様な光景ですよね。
あれももしかしたら、絶対にそうしないといけませんっていう規制があるわけじゃなくて、面倒くさいから?
花田
そうそう。企業の要項にそう書いてあるわけじゃないけど、万が一茶髪であることで落ちてしまったらもったいないな、だから一応黒髪にしておこう、という面倒くさがり方ですよね。
読み書きを教える前に人間的な器を作る
花田
『ぼくイエ』ではイギリスでの演劇の授業のエピソードも印象的でした。今作の中では坂上香さんの『プリズン・サークル』のことを中心に、刑務所の中で成功して「TC」という他者とのロールプレイング療法の話を書かれていますね。演劇的に他者の目線に立つことを通じて自分を獲得できるようになる、という目から鱗のような実例がご紹介されていました。うらやましいな、日本の学校教育にもこういうカリキュラムがあれば、と思うのと同時に、今の日本の学校の空気でこれをやらされるのはきついというか、楽しくなさそう、とも感じられてしまって……。私が通っていた当時もそうでしたが、現在に至っても、そういう演劇的なものに本気で取り組んだり、あるいは合唱コンクールで真剣に歌う子を嘲笑するという文化は相変わらず根付いているようで、綿々と受け継がれているこの冷笑的な態度……もちろんその冷笑の根底にはそういう形でしか反抗できない学校教育のヤバさもあるわけで、ああ、もうどこから手をつけたらいいのだろうかと思います。やっぱりエンパシーの授業の前にアナキズムを身につける授業が必要なんじゃないかと。
アナキズムというか、自分が自分であることとか、他者に支配させないということを学ぶ機会が、日本でもイギリスの100分の1ぐらいでもいいから与えられることって可能でしょうか?
ブレイディ
でも教育ってやっぱりね、私は保育士だったからほんとうによくわかりますけど、小学生じゃ遅いんですよね。
イギリスの幼児教育のカリキュラムでは、まず何をおいてもやらなきゃいけないのが《個人的・社会的・エモーショナルの分野の発達》とあるんですよ。そこのまず人間的な器を作ってから、そのあとで読み書きや算数とかを教えていけばいいのであって、日本はこれが逆じゃないですか。
幼児が身につけなきゃいけないのは、人間的でエモーショナルな器。あと社会的なコミュニケーションスキルとか、あと自分はこう思う、と自分の意見を言える人間になるんだっていうところをまずやっていかなきゃいけないということ。それで、その分野の最終目的が、自分の権利について立ち上がるための自信と能力を示す子どもにすること。
花田
めちゃめちゃいいですね〜。日本だとほんとうに幼児教育という言葉自体、数字や文字、ものの名前を教えたり、歌や工作をできるようにすること、というイメージが強いです。
ブレイディ
それで特に保育士のときに厳しく言われていたのが、Injustice、つまり子どもがこれはおかしいんじゃないか、不公平なんじゃないか、という意見を言ったときには、必ず時間を割いてよく聞けと。たとえば三輪車をずっとひとりの子が使い続けているとか、そういう問題が起きたときですよね。それでその状況をどうやったら解決できるかという話し合いに、必ず子どもを含めること。それは不公平だね、って子どもの話を聞く時間と、どうやったら解決できるかな? っていうのを話させる時間を作る。
あとは自分と他者の意見が違うと子どもが気づいたときに子ども同士で解決するために話し合う時間を作る、とか。ここでもとにかく「話す」なんですよ。それに、本を読ませろ、という指導もありました。ルールとは何か、ルールは絶対的なものなのか、あるいは変えてもいいものなのか、そして自分の行動は周りにどのような影響を与えているかということが書いてある本を子どもに読ませることで、子どもが自分自身で解決法を探れるようにする、それが保育士のすべきことだとあるんですね。
花田
聞けば聞くほどうらやましさが募ります。日本でもそうなっていってほしいですね。
ブレイディ
日本でもこういうものを作ろうという動きはあるようですが、なかなか反対勢力が強いみたいですよ。やっぱりそういうわがままな子どもを作ってはいけない、というような。
花田
仮にそういういい幼児教育を受けても、そのまま日本の小学校に上がったらそこで苦しみそうですしね。
面倒くさいかもしれないけど、逃げて
花田
ブレイディさんの著書を読んでいる大人の読者の方は、搾取されるエンパシーではなくて、アナーキック・エンパシーを身につけて、よりよく生きていきたいと感じられる方がすごく多いんじゃないかなと思います。子どもたちだけでなく、私たち大人にもまだまだアナキズムとエンパシーが足りないと思いますし、今それを目指している人もさらにエンパシーを鍛えることができるという結論がこの本の希望だったと思うんですが、今、日本社会に生きる私たち大人って、まず何から始めたらいいんでしょうか?
ブレイディ
自分が自分自身を生きているっていう感覚をいつも持ち続けることですよね。
建設的なアドバイスに聞こえないかもしれないですけど、逃げることかなあ。「こんな社会だめだ、私が私を生きられない」とか、「この家庭だめだ、私が私を生きられない」とか、「この組織だめだ、私が私を生きられない」と思ったら逃げていいと思う。これは大事ですよね。
逃げることって個人史的に見たら革命ですよ、やっぱり。で、革命だからこれもめっちゃ面倒くさいんですけど、それでも自分のために、社会に殺されないためにやったほうがいいと思う。
こういうこと言うと、「そう簡単に逃げられない立場の人もいる」って反論も来ますが、立場と自分とどっちが大事なのかって思う。その立場は誰かに押し付けられているのかもしれないし。ほんとうにそういうことを、日本の女性についてはすごく思います。
武田砂鉄さんの『マチズモを削り取れ』でも、体調が悪いのに部活中に無理やり走らされて亡くなってしまったのに、それを美談にされた女子マネージャーの話が出てきましたよね。
花田
学校でのパワハラや、オリンピック選手などを含めたスポーツ界のハラスメントも最近やっと明るみに出て問題視されるようになりました。女の子たちは大人になってもどうしてもあの愛想笑いがベースになってしまっていて、嫌なことを言われても、体調が悪くてつらいなと思っても、苦笑い愛想笑いで何とか済ませてしまう。それが最善の判断というよりは、反射的に身についてしまっていることが多いですね。
ブレイディ
たとえば伊藤野枝なんて、社会運動、労働運動に関わったときでも、お上や有識者に頼るばかりじゃなくて、労働者も勉強して自分で頑張れって言った人じゃないですか。それで嫌われるんですけど(笑)。でもあの感覚はやっぱり大事なんですよね。自分で立ち上がる。できないことはできないし、嫌なことは嫌なんだと、抗う力も必要だと思う。これもアナーキーな力。すごくバッシングされて居づらくなったらさっさと逃げれば、世界は広いから楽になれる場所が必ずある。
いつまでも自分を支配してる人たちの靴を履いていてもしょうがない。「上も大変だから私が我慢していよう」じゃなくて、まず自分の靴を履いて。そう伝えたいですね。
花田
上からくる理不尽な要求に、真顔で「は?」って答える練習が必要だと思います。
ブレイディ
ほんとうに、あの本を書いてからいろいろな反応を見てると、日本ではエンパシーの前にアナキズムのほうが大事だったんじゃないかって思いますよ。
花田
ブレイディさんが執筆のはじめに予測した通り、エンパシーとアナーキックというものはつながっていて、むしろつながりすぎているので、アナーキックのほうがまず育ってないから、エンパシーだけやってもうまくいかないんですね。ただ、今まではその共感すらもシンパシーしか認められていなかったので、そこにエンパシーという考え方が導入されたことで確実に楽にはなったと思います。
みんな同じじゃないといけないっていう枷がちょっと外れた感じはあるので、そういう意味ではすごく楽になったんですけど、ただ、アナーキック・エンパシーを獲得していくためには、ほんとうに長い道のりがあるなと感じます。
ブレイディ
生き延びるために面倒くさいことをしましょう。逃げることも面倒くさいけど、必要。
花田
さらなる副読本として、ぜひ日本人向けのアナキズムの身につけ方の本を出していただきたいくらいです。でも、この本は面倒くさいことを始めるための大きな風穴となる一冊だと思います。私も面倒くさがらずにやっていきます!
ブレイディみかこ
1965年福岡県生まれ。96年から英国ブライトン在住。2017年『子どもたちの階級闘争 ブロークン・ブリテンの無料託児所から』で第16回新潮ドキュメント賞を受賞。『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』がベストセラーになる。ほか『女たちのテロル』『ワイルドサイドをほっつき歩け ハマータウンのおっさんたち』など著書多数。
(構成/花田菜々子)
〈「STORY BOX」2021年10月号掲載〉