ゲスト/荒井裕樹さん◇書店員が気になった本!の著者と本のテーマについて語りまくって日々のモヤモヤを解きほぐしながらこれからの生き方と社会について考える対談◇第7回

ゲスト/荒井裕樹さん◇書店員が気になった本!の著者と本のテーマについて語りまくって日々のモヤモヤを解きほぐしながらこれからの生き方と社会について考える対談◇第7回

 コロナ禍やそれに伴う政治状況の変化によって、世の中にはネガティブな言葉が溢れ、要約という作業で言葉は削られている。〈短くてわかりやすい〉ことが重視される一方で、簡単にはまとめられない現実があるのではないだろうか。今回は障害者文化論を研究する日本文学者の荒井裕樹さんと、私たちの身の回りに溢れる「言葉」と社会との関わり方について考えました。


「どうすべきか」という質問には答えられない

荒井
 最初に釘を刺してしまうような言い方で大変恐縮なんですが、事前にいただいたご質問を拝見して、「難しいなぁ」って思いながらさっき河原を歩いてました。例えば「こういう問題はどうしたらいいんですか? どうすべきなんでしょうか?」という質問に、私は基本的には答えないし、答えられないというスタンスなんです。

花田
 はい。なるほど。

荒井
 というのは、「どうすべきか」とか「何ができるか」って、それぞれの事情とか置かれた立場によって、みんな違うので。その個々人の事情を無視して「こうすべきだよね」っていうのは、私自身は言いたくないし、そもそもそういうことを言ってくる人のことをあんまり信用してないんです。なので、いただいた質問に対して、私自身が迷っていたり、うまく言葉にできないところを言葉にすることで答える、ということでもよろしいでしょうか。

花田
 はい、もちろんです。今の言葉自体が私にとっては発見で、やっぱり自分はつい「明日からどう行動したらいいんだ」という問いが軸になりがちなので、「そうじゃない」という荒井さんの言葉が、こういう言い方でいいかわかりませんが、すごく面白いです。

荒井
 ありがとうございます。そう言ってもらえると、ちょっとしゃべりやすくなります。

花田
 この本(『まとまらない言葉を生きる』)が発売されてからすぐいろいろな書店員の方が絶賛しているのをツイッターで見かけて、自分もこれは気になる、すぐに読まなければ、というきっかけで手に取ったのですが、とても面白かったです。
 差別問題や障害者の方の問題は興味のあるテーマだったからというのもあるんですが、同時に文章の《速度》にも惹かれました。結論にまっすぐ向かうのではなく、すごくゆっくり歩いているような、遠回りをしているような速度で、でもその時間こそがとても大事なんだなと思わされる。電車で通り過ぎるときには見過ごしてしまう景色も、歩いてみると「こんなところにこんな建物あった?」と気づくような感じというか。その雰囲気がまず好きだなと。

荒井
 そうおっしゃっていただけて、とてもうれしいです。現場の書店員さん、特に個人経営の小規模な本屋さんにかなりご支持をいただいていると聞いて、ほんとうにありがたいです。

花田
 大きな犯罪や障害者差別、今の政治がもたらす苦しみ……と、扱うテーマ自体は重たいものなのに、なぜか心が落ち着くような、静かな気持ちになれる本ですね。

荒井
 コロナ禍ということもあって、部屋の枕元に置いておいても苦しくない本になってくれていたらうれしいですね。

「なぜ絵を描くの?」といちいち説明を求められるマイノリティー

花田
 本書の中で「『障害者は生きている意味がない』という言葉に反論しようとしたときに、まるでこちらに『障害者が生きる意味』を立証する責任があるかのように錯覚してしまう」ということを書かれていたじゃないですか。自分の中でもとてもハッとするような発見でした。つい何とか答えなきゃ、言い返さなきゃと、相手のフィールドに引き込まれてしまいます。よく考えたら、そもそも生きる意味なんて自分のことでも立証できないのに、「生きている意味ないだろう」という差別発言に対して「そんなことはない! 障害者の人だってこんなふうに生きている意味があるんだ!」みたいに言わないといけないって思わされているなって。

荒井
 普段私たちって、例えば電車に乗ってどこかへ出かけたり、友達を誘って飲みに行ったり、ふらりと美術館に行ったり、コンサートに行ったり……って、なぜそれをするのかって、特に説明は求められないですよね。
 普通は「したいからする」で済むんですけど、でも障害のある人たちとかマイノリティーって、そういう「自分がしたいこと」ひとつひとつに対して、なぜそうする必要があるのかとか、それをやったからどうなるんだとか、何かメリットはあるのかとか、ものすごく聞かれるんですよ。
 例えば、以前、精神科病院の中で絵を描いている人たちの活動を取材していたんですが、世の中に絵を描いてる人はたくさんいて、世間一般的には「何で描くの?」「描きたいからです」で済む話が、「精神障害者」が絵を描くと、「絵を描いて病気が治るのか」「症状がよくなるのか」「就業・自立に繋がるのか」とか、いろいろ突っこまれる。立場の弱い人たちほど、自分がこうしたいとか、これをやりたいっていうことに対して、鬱陶しいぐらい説明を求められるんですよね。

花田
 ただの欲求や願望にいちいち説明を求められるのはしんどいですね。しかも「ほんとうに必要なのか?」とちょっと抑えこまれるような言い方で。

荒井
 でも、コロナ禍という混乱の中で、多くの人がその説明を求められましたよね。「今フェスやる必要あるのか」「飲み会やる必要があるのか」とか。

花田
 ああ、なるほど。

荒井
 相互監視的に説明を求める社会っていうのが、この緊急事態の中で形成されていたんだと思うんです。「自分が遊びたいから遊ぶ」というわけにはいかず、「経済を回すため」みたいな言い訳が必要になってしまう。でも、マイノリティーって、昔からずっとこうした説明を求められてきたんですよ。なので、鬱陶しい時代ではあるけど、今まで私たちが「当たり前」だと思ってきたことを「当たり前」として生きてこられなかった人たちのことを、こんな感じだったのかなと想像したり、慮ってみたりすることはできるな、と。もちろん、「同じ気持ち」になるのは難しいでしょうが、でも「同じ方向」は向けると思うんです。

花田
 このコロナ禍で、「マイノリティーの方の生きづらさの一日体験」みたいなことに、今みんながなっているんですね。
 でもせっかくその生きづらさを私たちが疑似体験できても、相変わらず自分は他人に迷惑をかけてはいけないし、他人も私に迷惑をかけるな、という社会をやってしまっている気もします。
 駅のポスターで信じがたいなと思っているものがひとつあって。震災が起きたときに交通網が混乱するからすぐに帰ろうとするな、その場にとどまれ、というものなのですが。帰りたい人は、家族と一緒に過ごしたい、とか、何かが心配とか、それぞれにとって大事な理由があると思うし、そもそも理由がなくても帰りたい人は帰ろうとしていいと思うんです。帰らなくても大丈夫な人や帰れない人には帰らずに過ごせる施設や環境を用意していますよ、という宣伝ならともかく。あまりにも想像力がなさすぎるな、と思っていて。

荒井
 人ってそれぞれの事情がありますよね。その基本的なところをふまえない広告や啓発的メッセージが流布されていて、すごくモヤモヤがたまります。最近のCMでも女性の描き方の気持ち悪さが炎上するケースがいくつかありましたが、あれって、企画段階でいろんな人が参加していて、自由にものが言えていたら、「おかしいよね」って意見が出ていたと思うんです。多分それがないんですよね。
 公共広告もトップダウン思考というか、単一の価値観、単一の行動指針が望ましいものとして出されちゃう。それがすごく気持ち悪いし、それが気持ち悪いということに気づいていない人たちがそういうものを作っているのがさらに気持ち悪いですよね。

花田
 今の政治の気持ち悪さと全部繋がっていく感じがしますよね。

荒井
 そう、私たちはほんとうに気持ちが悪い時代を生きているなって。

「やさしさ」ってなんだろう

花田
「やさしい人になりたいな」と日々思うのですが、悩む局面がたびたびあります。荒井さんも本の中で、被災した人に『頑張れ』と言うことの害について言及されていましたが、頑張れ、という言葉には暴力性とか、あるいは言った側の自己満足という側面もありますよね。最近は被災地への千羽鶴や古着が迷惑になることもある、ということもだいぶ言われるようになったり、善意の押し付けを拒否してもいい流れになっていて、いいなと思います。
 ただ、その一方で「頑張れという言葉が傷つけてしまうかも」「他の言葉でも傷つけてしまうかも」と足がすくんでしまう感じもあって。例えば近くにいる人が家族の死とか、何かつらい状況にあるときに、なんて声をかけていいかわからなくて結局何も言えなかったり。逆に自分がつらい状況にあるときでも、まわりを戸惑わせてしまいたくなくてそのことを言えなかったり。やさしさが悪い方向に空回りしているような、こういうときどうしたらいいんだろう、って思います。

荒井
 どうしたらいいんでしょうね。ただ私は、こういうふうに「悩む」こと自体が大事だと思うんです。「悩む」という心のブレーキがある程度働いていれば、そこに過剰な暴力は生まれにくいだろうとは思うんですね。そのブレーキが働くかどうかということが重要なのかな、と。
「やさしい」という言葉は、ここ数年でずいぶんイメージが変わってきたような気がします。

花田
 そうですね、やさしい、って言葉の意味が広すぎますね。どんなふうに変わったと感じますか?

荒井
 30~40年前だと「やさしい」は男性のジェンダーと結びつくと、力強く守ってやるという強さを想起させたし、女性のジェンダーと結びつくときは、包容力やあたりの柔らかさみたいなものとして考えられていたと思うんです。
 最近の「やさしい」のイメージで印象的なのは、作家の大前粟生さんでしょうか。大前さんの作品では「やさしい」という言葉が、脆弱性の許容、他者への共感、加害性への怖れ、といったイメージで使われていますよね。「やさしい」という言葉にそういうイメージが盛り込まれているというのは、やはり時代の要請があるんだと思います。弱さを認めたり加害性を自覚することが「やさしい」と言われるこの時代って何だろう、というところは考えたいですね。

花田
 うん、たしかに変わってきているかも。そうすると自分が漠然と抱いている「やさしい人になりたい」とは何を指し示していたのか、自信がなくなってきます(笑)。

荒井
 それから、「頑張る」という言葉にもいつもすごくモヤモヤしていて。「頑張る」って、コロナ禍でよく見聞きしましたけど、私たちは「頑張っている」んですかね。「頑張る」って望ましい姿みたいな感じがしますよね。

花田
 そうですね、前向きなイメージですね。

荒井
 でも、私が親しくしている飲食店の人や、旅行会社に就職した卒業生とか、「頑張っている」という次元ではなくて、もう何だろうな、溺れていて、必死にもがいているんですよ。それは「頑張っている」ではないんですよ。

花田
 ああ……。

荒井
 生きるか死ぬかの瀬戸際でもがいている人っていうのはたくさんいて。でも「頑張っている」という言葉にしてしまうと、そんなに助けなくてもよくて、褒めて、拍手して、あたたかく見守ればいいよね、みたいになってしまう。医療従事者も「頑張っている」んだから、ブルーインパルス飛ばして、ビルとか橋とかをライトアップして感謝の意を示せばいいんでしょ、みたいになってしまうんですよね。「頑張れ」という言葉が覆い隠してしまうものをきちんと見ていたいです。

花田
「頑張れ」は困難な状況にある人への、自分の思考を停止させてくれる便利なワードなのかもしれないですね。

荒井
 これさえ言っておけば自分は悪役にならずに済むというか、自分は無傷でいられる言葉っていうのがやっぱりあって。「頑張れ」とか、あとは「大丈夫」もそういう言葉になってしまったのかな、って。

花田
 そういう言葉、無自覚に使ってしまいそうで怖いです。

やさしい言葉を降り積もらせていこう

荒井
「やさしさ」ってなんだろうっていろいろ考える中で、「こうあるべき」とかじゃなく、私は私なりにこういうことをしてる、っていう話なんですけど。

花田
 はい。

荒井
 私にはパートナーがいて、子どもがひとりいるんですね。私の方が時間に融通が利くので、家事とか子ども関係のことっていうのは、結果的に私がやることが多くなります。で、夕飯を作ったり片付けをしたりする中で手が回らなかったりする時なんかに、妻にちょっと手伝ってほしいと声をかけることがあるわけです。そういうときには「きちんとお願いする言葉」で言うようにしているんです。私が気にしているのは、私の姿をうちの息子が見てどう感じるかなんです。

花田
 うんうん。なるほど。

荒井
 私も妻も教員なので、仕事柄いろんな年齢の子どもたちと接するんですよ。そうすると、ある時期から男の子のほうに、「女の人は男の人の手伝いをするのが当たり前」「女の人=無条件に手伝ってくれる人」といった価値観がインストールされるんですよね。それがすごく嫌で。なので普段の言葉づかいの中で、「人にものを頼むときは『お願い』が必要なのであって、夫が妻に何かを手伝わせるっていうのは決して自然なことではない。男だろうが女だろうが、手伝ってもらうときには『お願い』をするものなのだ」って伝わるようにと考えているんです。

花田
 いいですね。「こうすべきだ」という説教より、そういう細かいところやニュアンスから影響を受けるというのは大いにあると思います。

荒井
 はい。この本を書いたもともとの根っこの部分を掘り下げて、自分は何がしたかったんだろうというふうに思い返すと、何か……これからの社会にどういう言葉を残していくか、子どもたちの世代に何を残して、どういうふうにしたいのかっていうのを、そろそろ大人として、きちんと責任持たなきゃダメだよなって思ったんですよね。
 私はいちおう言葉を職業としている人間なので、「どういう言葉を残していけるか」「どういう言葉のバリエーションを増やしていけるか」「苦しくない言葉って何なんだろう」みたいなことを、なるべくこの社会のいろんなところに残しておきたい、というのが、自分の中にあるんです。

花田
「言葉が降り積もる」と、本の中でも書かれていましたね。わかる気がします。荒井さんのように、いい言葉も悪い言葉も、この世界に降り積もっていくものなのだと考えて、ヘイトや差別の言葉、人を苦しめる言葉に対抗するためには、と考えたとき、私は運動会の玉入れ競争が思い浮かんだんです。敵チームがカゴに入れた玉の数より多く、こちらが魂のある言葉を世に送り出し続けるしかないんじゃないかな、と。

荒井
(笑)。面白いことを言いますね。

花田
 スマホが普及した頃に流行した「イングレス」というゲームがあって、スマホから取得できる自分の位置情報をもとに、世界中のユーザーが青と緑のチームに分かれて陣取りゲームをするんですね。自分が初めてログインしたときには、もう既にけっこうな差で敵のチームが勝っていたんですよ。「これってもう規模が大きすぎるからくつがえらなくないか」って一瞬思ったんですけど、でも世界のみんなでやってるからくつがえる可能性もけっこうあるなってハッとして。実際に勝ち負けは流動的でした。それ自体はただのゲームなんですが、何かその体験を自分は象徴的に感じていて、一見くつがえらないように感じられることでも、勝つために何かすごく大きい作戦とかがあるんじゃなくて、とにかく自分たちが地道に一歩一歩を積み重ねていくしかないというか。
 いい言葉と悪い言葉の戦いなんて、そんな単純なものではないとは思うんですけど、いい言葉を積み重ねる、降り積もらせていく、という地味な作戦が結局いちばん「勝つ」のではないかと感じています。

荒井
 やっぱり「言葉を残しておく」っていうことは、すごく大事なんだと思うんですよね。

花田
 それは名言のように輝いてわかりやすい言葉のことではなくて。

荒井
「やさしい」っていうのは、瞬間的な感情だけでもなると思うんですよね。瞬間的なものだけでなく、中長期的にみたときに、何ができるんだろうとか、どういうことができるんだろうって考えたり、思い悩んだりしながら、自分が生きてることとか日々の暮らしを見つめ直していくというのも、「やさしい」を考えることにつながるのかなと思います。

まとめないことの大切さ

花田
 この本は、いろいろな事象を通して「人権」について書いたとも言える本だと思うんです。
 人権というのは私たちは日常の中ではあまり使わない言葉というか、例えば難民の方や、もしくは法的な用語として使うようなイメージになっていますよね。もっと普通に広く、毎日を過ごす中で『人権ムード』が盛り上がったらいいなと思っています。

荒井
 人権という概念自体、私たちの社会ではこれまできちんと議論することができていなかったという気がしています。ただ一方で、私がお世話になった障害者運動家の方たちは「権利」という言葉をほとんど使っていないんです。

花田
 それは意外です。どうしてですか?

荒井
 権利とか人権って、下手に使うと「これ以上議論しなくてもよい言葉」になりかねないんですよ。「俺の権利だから!」っていうかたちで相手を黙らせる言葉になってしまう。私がお世話になった運動家は、そうした点を懸念してこの言葉には非常に慎重でした。権利とか人権って「優遇してほしい」というニュアンスで捉えられてしまうんですが、これは誤りなんです。本来は、どんなに意見や価値観の対立があって嫌ったり恨んだりしたとしても、ここから先は侵害してはいけないというボーダーラインを示すものなんですよね。さすがにこのラインを超えたらヤバいだろうという一線です。障害者運動って「障害者の要求を飲め!」とも「障害者をチヤホヤしろ!」とも言っていなくて、ただ単純に「みんなと同じボーダーラインに立たせてほしい」っていう運動なんです。

花田
 なるほど。

荒井
 だから今、この社会で人権の感覚が崩壊しているというのは、そのボーダーがなくなりつつあるということ。例えば入国管理局で死亡したウィシュマさんの件、難民認定の件、それから外国人技能実習生とか、非正規雇用、ワーキングプアの問題とか……。これらはものすごく恐ろしいことだし、これからもっと怖いことが起こり続けると思うので、みなさんもっとこの問題を考えませんか、とあちこちで言うようにしているんです。ただ……花田さんは書店員だからわかってくださると思うんですが、人権の本とかって……売れなくないですか?(苦笑)

花田
 あはは(笑)。いや、でもね、私が希望だと思っているのは、フェミニズムって書いてある本は3~4年前までは売れなかったってよく聞くんです。この数年で急に「フェミニズムと書いてあると売れる」という状況に一転しました。結局こういう問題って下から突き上げて崩すしかないと思う中で、フェミニズムというところの穴が空いたら、今度はそこから発展する。性教育の本などが顕著なのですが、性教育で何を子どもに伝えるべきかと各々が考えた結果、つまり「人権」を教えることなのでないかという結論に全体的に辿りついてるんですよね。だから何か一か所崩れると、けっこうこれはなし崩し的にいける可能性あるぞ、と私は前向きに思っていたりします。

荒井
 昔の社会運動の言葉で言うと「一面突破、全面展開」ですね。障害者の人権の問題は特にとっつきにくいというか、専門性が高くて、にわかで手を出しにくいと思われがちなんです。だから、そういうかたちで風穴があいて、フェミニズムとか、あるいは環境問題とかの一点突破から、人権の問題へと面的に繋がっていったら面白いですね。

花田
 自分ごとの問題が社会の中でひとつでも変わっていくのを体感できると、もしかしたら別の問題も同じことが起きているかも? と想像しやすくなるというのはあると思います。

荒井
 例えば本を書くとき、本屋のどこの棚に置かれる本なのか、ということを出版社の営業さんが言うのですが、そういうことを言われるとそれを考えて本を書いてしまいそうな自分がいるわけです。でも、世界は本屋の棚の数よりも複雑なんだから、なんで本屋の棚に合わせて本を作んなきゃならないんだって思うようにしていて。本屋の棚のジャンルに収まりにくい本を書く、そういう仕事をしていきたいなと思っています。

花田
 自分の個人的な思いですが、どこのジャンルに分けていいか迷う本というのはやはりいい本の可能性が高いと思うんですよね。私たちって何かひとつの問題だけを抱えて生きているわけではないので。だからジャンルを横断しているような、これ何の本なんだ、どこに置くんだ、と困らせてくれるような本は、少なくとも私は好きですし、そういう本が最近注目される傾向にある気がします。

荒井
 いい話を聞いたな。じゃあ書店員さんが困る本を頑張って書こう(笑)。でも花田さんはそう言ってくれるけど、今の社会は感情の整理がつかないものは嫌われるし、感情の整理がつきやすいものが好かれる傾向にあると思うんです。『鬼滅の刃』がヒットしたのも、「ここで泣いてください」「ここで感動してください」というかたちで、感情の持って行き方がとても整理されていたからだと思っているんです。でも、感情の整理のつかないもののほうがこの社会には多い。だからうまくまとめられないものも、できるだけ、そのままのかたちで丁寧に届けたいと思うんです。

花田
 ネットニュースなんかでも「要点を三行にまとめました」みたいなの、ありますね。そういうものが求められているのを感じる半面、何か貧しさというか、そうじゃないだろう、というのは感じます。

荒井
「ざっくり言うと」とか言う人がいて、それを言われるたびに「ざっくりしないでください」って思うんですよね。何か、きれいにまとめられるとムカつくというのが自分の中であって。何を大事にするかっていうのは人それぞれ違うはずなのに、まとめるっていうのは誰かの価値観で「大事なことはこれです」って押し付けられている気がするんですよ。

花田
 ほんとうですね。今日荒井さんとお話しして、「まとめない」ブームが自分の中に来そうです。「まとめない」こと、大事にしたいです。そろそろ時間なのですが……うーん、今日のお話を最後にひとことでまとめていただいて……、なんてこと絶対言えないしな(笑)。

荒井
 いやいや、今日の話はざっくりまとめていただければ(笑)。

花田
 えーっ! ふふふ。ありがとうございました。


まとまらない言葉を生きる

『まとまらない言葉を生きる』
柏書房

マイノリティの自己表現をテーマに研究を続ける文学者が、いま生きづらさを感じているあなたに、そして自らに向けて綴った、18のエッセイ。


 
荒井裕樹(あらい・ゆうき)
1980年東京都生まれ。二松學舍大学文学部准教授。専門は障害者文化論、日本近現代文学。東京大学大学院人文社会系研究科修了。博士(文学)。著書に『車椅子の横に立つ人──障害から見つめる「生きにくさ」』『障害者差別を問いなおす』などがある。

(構成/花田菜々子)
〈「STORY BOX」2021年12月号掲載〉

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第168回
武田綾乃「おはようおかえり 京は猫日和」 第19回「大人の証」