ゲスト/永井玲衣さん◇書店員が気になった本!の著者と本のテーマについて語りまくって日々のモヤモヤを解きほぐしながらこれからの生き方と社会について考える対談◇第16回

ゲスト/永井玲衣さん◇書店員が気になった本!の著者と本のテーマについて語りまくって日々のモヤモヤを解きほぐしながらこれからの生き方と社会について考える対談◇第16回
  今月のモヤ  
手のひらサイズの哲学

 
 子どもの頃は些細なことに「なんで?」と疑問を投げかけていたけれど、いつの頃からか「そういうものだから」と分かったふりをして自ら世界を小さくしてはいないだろうか。永井玲衣さんは、ライフワークとして行っている哲学対話を「他の人と一緒にままならなさをまっとうに苦しむ場」だという。世界をよく見るために哲学するとはどういうことなのだろうか。私たちが日常の中で直面する悩みや迷いに向き合うための「手のひらサイズの哲学」を考えます。


花田
水中の哲学者たち』、とても面白く読ませていただきました。帯の推薦文が穂村弘さんと最果タヒさんで、哲学の本の帯としては一見意外な並びなのですが、まさにこのお二人が思い浮かぶ読み心地で、冒頭からとても笑えるし、かつ深い谷に突き落とされるようでもあり、「あ、こんなことを考えてもいいんだ」と思わせてくれるような、とても引き込まれる本でした。なぜこのようなスタイルで哲学の本を書かれることになったのですか。

永井
 私は哲学科出身なのですが、哲学するってどういうことなんだろうと思いながらずっと哲学科にいて、「世界をよく見る」ということをしたいなと思ってたんですよね。「なぜ生きているのか」「死んだらどうなるのか」ということもだし、もっと「なぜパートナーがいるのに他の人とLINEしたくなっちゃうんだろう」とか「抜けた髪の毛は自分のものなのになぜ気持ち悪く感じるんだろう」というような、くだらなくて世俗的に思えてしまう問いも哲学として扱いたいなと思っていました。ただ、論文ではそこを抽象化しないといけないもどかしさがあって、世界に根ざしながら世界をよく見ることに辿り着くためには論文の文体では難しい。それでこのエッセイのような変な表現を試みました。

花田
 なるほど。そうすると、よくある「哲学を研究していない人にも哲学の面白さを伝えようと思った」というようなニュアンスとはちょっと違いますね。

永井
 哲学の入門書というつもりもないし、「みんな、哲学をもっと好きになろう」というような気持ちも実際のところあまりなくて、私が哲学してみた結果を書くためにはこういう形式じゃないとまずかった、という感じです。

花田
 哲学を研究されている方にとっては、もしかしたらそのジレンマは覚えのあるものなのかもしれないですね。同業の方からの反応はいかがですか?

永井
 結構二分されましたね。すごく評価してくださる研究者の方もいましたし、めちゃくちゃ怒られる、みたいなのもあって。

花田
 いつの時代、どのジャンルでもそういうことはあるんですね。M−1の「これは漫才じゃない」論争じゃないけど、狭義の定義に落とし込むのが好きというか、そこからはみ出るものに対して面白がることができずに否定の態度を取ってしまうんですね。

永井
 専門家じゃないのにこんなことを書いてはだめだと言われたりとか。専門家って誰? みたいな。

花田
 誰なら語る権利があるんでしょうね。逆に、専門ということでいうと、永井さんはお笑いがお好きなんですよね。本文中でも何度かお笑いの例を出されていましたが、哲学の目線で見るとサンドウィッチマンのボケやナイツの自己紹介も「哲学」だったのか、と気づくことができてとても面白かったです。これはお笑い批評家のような専門家では持ち得ない視点ではないでしょうか。お笑いのことだけで一冊書いてほしいくらいです。霜降り明星さんの「しょうもない人生」というツッコミを哲学として語られている箇所なんて、永井さんの見解が面白すぎて、どうしても見たくなってインターネットで探してしまいました(笑)。

永井
 えーっ、ほんとですか。いやそんな、ありがとうございます。

脆くなるための哲学対話

花田
 ご著書を読んで、いちばん強く感じたのは自分も「弱さ」の空気をまとった人間でありたいなということです。大人になると「まあそういうものだよ」と自分に言い聞かせられたり、揺るがずにいられるものですが、もっと迷ったり傷ついたりできる弱さを持っていたいなと思いました。永井さんは、ご自身の弱さを保つ……というとちょっと変な表現ですが、弱い存在でいるために何か心がけていらっしゃることがありますか?

永井
 哲学対話を通していちばんびっくりしたのは、それによって自分が「弱くなる」というか「脆くなる」という経験なんですね。対話を積み重ねることで自分の言動、語りというものがすごくブレて不安定になってしまうということに驚きました。以前は、哲学は自分が強くなるための武器のようなものだと思っていたので。

花田
 そうですね。普通は自分の不安定さを解決したり、より明解にいられるように学ぶのではないか、と思いますね。

永井
 十代の頃、自分もとても不安定だったので強くなりたいという願望がずっとあったんです。私が主体で哲学は手段というか、「哲学」を「私」が扱えるようになると思っていました。でもそんなことはなくて、私たちはむしろ哲学させられるし、対話によって語らされるし、考えさせられる──常に受け身の形で行われているなというのが実感で、ままならなさがずっと流れている営みだなと思ったんです。
 弱さを保つ、というよりは、ほんとうに、ただただわからないということを直視する、隠さない、ごまかさずに「ままならないよね」って笑ってしまう……ということが哲学対話では許されたいなと思っています。
 哲学対話の定義はいろいろとありますが、私は「人々とままならなさをまっとうに苦しむ場」なのかなと思います。弱くなる、脆くなるということをまっとうにやる。でもそれはひとりだとしんどいからみんなとやる、まあいざとなったらみんなでやるからもっとつらいというところもあるんですけど(笑)、でもみんなでやってみようよ、というのが哲学対話なのかなと。

永井玲衣さん

花田
 なるほど。私は人と二人で話すことが好きで、それは、たとえば四人だとひとりが「人を殺したいと思う」というような突飛な発言をしたら、あとの二人の反応を窺って「ね、こんなふうに言ってますけど、ちょっとヤバいですよね」とつい中立的な態度を取ろうとしてしまいますよね。でも二人だと場をスタンダードなものにしなくてもいいという自由さがあるので「へえー、そうか、殺したいってどんな感じ?」とその人に乗り移るような感じで、すごく遠くまで行けるのが好きなんですね。でも哲学対話の場合は、みんながいるからいいというのがあるんでしょうか。

永井
 ああ、そうですね。私は十代の頃から人と話すのってなんでこんなに難しいんだろうとずっと思っていて。おっしゃるとおり、二人だとずっと話しやすいし遠くまで行けるんです。でも、なんで人が集まって集団になった途端にこんなはちゃめちゃになってわけわからなくなっちゃうんだろう、って思う。だから哲学対話をやっているんですよね。

花田
 わけのわからなさに惹かれてやっているということですか?

永井
 私たちは四人とか六人の飲み会だとかを何となくやり過ごしてきたんだと思います。哲学対話のときに「みんなで話すということをしましょう」「自分と誰かに無理をさせない場をゆっくり作りましょう」と言うのですが、実際、それはほとんど不可能な試みなんです。でもその難しさにひりひり肌を焼かれながら、そういう場をどうやったら作れるか考えながら話すことを試みたい。人間の愚かさとかままならなさが露出していく、ということをやってみたいと思っているんですね、きっと。

慣れていないのではなく、傷ついている

花田
 小学校で哲学対話の授業を行うエピソードを書いていらっしゃいますが、議論が活発に進められていて、これは建設的なディスカッションのトレーニングをしている進学校でのお話なのかな? と感じたのですが。

永井
 いえ、全然進学校ではないんです。全国をいろいろと回りましたが、偏差値は関係ないんですよね。それが衝撃でした。高校生でも、超有名進学校の対話の雰囲気と、いわゆる教育困難校と言われているところの対話の雰囲気は、まったく変わらないんですよ。

花田
 それは意外です。面白いですね。

永井
 だからやはり哲学は普遍的なんだな、と。それから、私はこちらで用意した問いではなく、参加者の問いから始める哲学対話が好きなのですが、いわゆる教育困難校と言われている子たちのほうが、問いが生々しいんですね。「何で生まれてきたんだ」とか「何で格差があるんだ」というような問いが出てくる。進学校のほうがもう少し「こういうことを議論してみると有意義かも」みたいな問いを出すような印象でした。

花田
 悪い意味で、効率の良い生産的な対話にしようとするということでしょうか。

永井
 そういう部分もあるかもしれません。でも彼らも時間をしっかりとって待ってみると、やっぱり彼らの問いが出てくる。それは大人もそうなんですよね。企業でやるときも最初はみんな「じゃあ、いいチームとは何かについて考えます」、みたいな(笑)。いや、そういうのはもういいからと言って、まず世界観の共有をします。「たまたま今日はこういう時間なんでちょっとやってみましょう」「自分の髪なのに抜けた髪の毛はなんで気持ち悪いんだろう、とかそんなことでいいんですよ」とか、時間をたっぷりとって言い訳をいっぱい作ってあげる。そうすると大人からも「なんで大人になるとドキドキしなくなっちゃうんだろう」みたいな、すごく素朴で手のひらサイズのいい哲学が出てくるんです。

花田
 すごい。それがファシリテーターの永井さんの役割なんですね。抽象的な質問かもしれませんが、さまざまな場所で哲学対話を繰り返されていて、「いい対話だったな」というときと「凡庸な対話になってしまったな」というような差ってあるものなのでしょうか?

永井
 これはすごく難しい問題で、対話が成功するとは何か、というのはもうほんとうに宙吊りの問いであり続けていて、何が成功で失敗なのかというのは実際わからないんですよね。なぜならその場では盛り上がっているように見えなくても、ものすごく考えている子がいたり、そのときピンと来なくても三年後にいきなり思い出してぐわーっと思考が深まったりするかもしれない。哲学ってその対話の場から溢れ出て私たちの日常を侵食して続いていくものなので、判断しづらいです。
 ただ、つまらない対話、というものはあると思います。それはたとえば「いいチームとは何か話そうか」と決まり、新入社員の方が気を使って「僕は〇〇さんみたいなリーダーが好きです」と言う、みたいな……。でも、それは彼らが哲学が下手なのではなくて、場が危険というか、大丈夫じゃないんですね。

花田
 企業の中にいたことのある身からすると、その空気も非常にわかります。オフィスの中には哲学が入る余裕が生まれにくいというか、自由に話してくださいと言われてもオフィスの中の人格になってしまっていて、会社員っぽい発言しかできなくなっている気がしますね。哲学との相性は最悪かもしれない。

永井
 日本人は対話をすることに「慣れていない」、という言い方をするじゃないですか。だから「慣れてないからこれからやっていきましょう」なんて言うけど、ほんとうはそんなものじゃなくてもっと深刻。ずっと傷ついていて、正しいこと以外を言っちゃいけないと思ってるし、許されないと思っているんですよ。これはとても大きな問題だと思います。

論破の「破」は何を破壊しているか

花田
 学校で対話の授業をする際のエピソードで、十代の子どもたちが「どうせ答えがあるんでしょ? 早く言っちゃいなよ」とニヤニヤしてきたり、「全部自己責任だよ」という結論を繰り返してみんなで笑っている……というような冷笑的なふるまいがたびたびあり、その度に傷つく永井さんが描かれていたのがとても心に残りました。
 それらを俯瞰して分析したりするのではなく、こうして傷ついて呆然としていいのだな、と永井さんの態度に教えていただいたような気がしました。しかし子どもというのは往々にしてそういう態度を取る生きものだなという気もしますし、今、ひろゆきさんのような「論破」に憧れる若者は多いんだろうなと思います。

永井
 そうですね。ある学生が「論破の『破』は何を破壊しているか。それは可能性を破壊しているんだ」と言っていて、非常に言い得ているなと思いました。でも子どもたちも不安だからこそそういうふるまいをするという面もあると思うんです。

花田
 確かに。子どもは子どもなりに、優等生的な回答しか許されていないことに不満や怒りを感じていますよね。私も読書感想文の宿題で悩んでいる子どもに、お手本っぽく書かずに今しゃべっていたような率直なことを書いた方が面白いものになるよ、とアドバイスしたのですが、信じてもらえなかったです。たとえ私が面白がったとしてもA評価はもらえないのだ、と。
 大人の模範解答の押し付けに対して、自分たちは生きているのだと主張し、カウンターを一発くらわせて大人を黙らせるために論破話法をやらざるを得ない彼らの痛みもわかる。ただ、「それってあなたの感想ですよね」で何か勝ったような気持ちになって話を打ち切るというのは、結局大人が無意味な校則や常識を「そういうものだから」と話を打ち切って押し付けてきたやり方と変わらないんですよね。

花田菜々子さん

永井
 ほんとだ。そうだ。逆襲されているのか、今。

花田
 そっちじゃないよ〜、敵と同じことをやっちゃってるよ〜、って思うんですけど。

永井
 先ほど話した、私たちは傷ついているというところにつながりますね。大学の授業の後にもリアクションペーパーというものを提出してもらうんですが、やはり典型的な「哲学は難しいものだと思っていたけど面白いものだと気づきました、これからも哲学を読んでいきたいと思います」というような文章を五百人くらいが書いてくる(笑)。なのでレポートもエッセイでいいし思ったことを垂れ流しで書いてほしいと繰り返し伝えると、最初は警戒しているんですが、「典型的に書かなければいけないことがずっとつらかった」「評価されないのではと不安で書けなかった」と言い出すし、泣き出す子もいて、豊かなリアクションペーパーが返ってくるようになります。それだけしんどい世界を私たちは生きているんですよね。

花田
 だから彼らに何と言ってあげたらいいのかわからない、と思ってしまう。彼らを逆論破してもしょうがないし。

永井
 そうですよね。ひろゆきにひろゆきで返しても、地獄みたいな、無限ひろゆきみたいなことになっちゃう。論破が流行っているのはつらいですね。

花田
 もちろんひろゆきさんの発想には価値のあるものや、子どもたちにとって魅力的なものもあると思うんですけど。

永井
 そうですね。それにまあ、大人も好きですしね。
 哲学って、多分知識とスキルと態度に分かれると思っていて、今までは「哲学者の名言」とか、知識みたいなところにばかり焦点が当たってきた気がするんですよ。一方、「ビジネスに役立つ論理的思考」のような形でスキルやテクニックも注目されがちなんですが、実は態度がいちばん重要だと思うんです。よく聞くとか、待つとか、ままならなさに耐える知的体力があるとか。だから論破のような風潮に対して、哲学の知識やスキルで対抗するよりもこういう態度があるよということを言い続けるしかないのかなと思います。

ひとりで考えることはできない

永井
 私たちがわからないことを「なんで?」と聞くとき、今すぐ答えがほしいわけじゃなくて、いっしょに考えたいだけということってあると思うんです。「なんでこれをやるんですか?」「なんでこっちではだめなんですか?」と聞いたときに「決まりだから」「こういう説があるよ」と教えてほしいわけではなく、いっしょに「何でだろうね」と考えてほしい。だから言われていちばん悲しい言葉って「そんなのどうでもいいじゃん」なんですよね。
 私が哲学を好きなのは、哲学は何もバカにしないというところです。「そんなこと考えても意味ない」とは決して言わない。たとえば自己肯定感が低いという悩みがあるとして、それを真面目に取り上げて、しかもその人にだけの相談室というのをやるのではなく、「自己肯定感が低いってそもそもどういうこと?」「自己を肯定するって何?」とみんなの問いにしていく。これがみんなでまっとうに苦しむ、もがくということです。

花田
 最近は精神疾患の方の治療としてのオープン・ダイアローグなども注目されていますよね。専門家が非専門家に一方的に教えるのではなく、答えがあるようなないような状況の中で、みんなでああだこうだと言い合うことがいい効果を生むという結果が出ているというのはとても興味深いです。
 そういえば書店界隈でも読書会、というイベントがだいぶメジャーになりましたが、それも哲学対話に似ているのかもしれないです。もちろんテーマになっている本の理解を深めたいという動機もあるかもしれませんが、何かひとつのテーマで、みんなであれこれ話したいだけのような気もするんです。本はただのきっかけなのかもしれないと思いました。

永井
 ああ、たしかに。哲学対話ととても近いと思いますね。

花田
 私は人と話すことが好きで、しかも友人や恋人のような近い距離の人よりは、ちょっと遠い距離の人、どういう人なんだろうぐらいの人と話すことで、その人を知るだけでなく逆に自分を知ることができる気がするので、すごく面白いなと思っているんです。

永井
 私は元来閉じこもった人間だったので、できればひとりで考えたいし、ずっと本と対話していたいタイプだったんですが、私がちゃんと考えるということを突き詰めてするためには他者がいないと無理なんですよね。それに気づいたとき、とても衝撃を受けました。他者と関わらないとちゃんとひとりになることすらできないんだっていうことの衝撃ですよね。だからおっしゃるとおりで、人と話すからこそ自分がわかる。
 あと、私という人間は、問われることによって初めて語れたり、聞かれて初めて考えたりと、非常に受け身なんです。だから、他者がいないと考え出すことすらできないし、問いを出すことすらできない。そんなふうに自分を捉えています。

花田
 哲学のことを哲学対話を通じてみんなで考えることと、書物に向かい合って考えること、ひとりで、たとえばぼんやりお風呂で考えるのは、永井さんにとってはどう違うと思いますか? ひとりで考える時間もまたいいものではありますよね。

永井
 うーん……私はひとりで考えているのかな。考えてない気もしますね。ひとりになったときに他者の言葉を反芻することはありますけど、ひとりでゼロから考え出して、ゼロから言葉を構築することって、多分ない。本もひとつの他者ですから、それを通していひとりで考えるっていうだけかもしれないです。

花田
 そう言われるとそうかもしれません。お風呂に入りながら、何の題材もなしに「今日は一時間、生きるとは何かについて考えよう」というのは、ものすごく難しいですよね。

永井
 難しいですね。できないと思います。

「わからない」の先にある奥行きを信じる

花田
 先ほど読書会のことを話しましたが、そこまで行かずとも、たとえば話題になっている一冊の本について、読了している数人で話をするということがあります。そのときに、「面白かった」「よかった」という話だとそこから広がらないんですが、「あの部分がわからなかった」「あれはどういう意味だろう」と誰かが発言すると、一見ムードを壊しているようで、実際には対話が急に豊かになる感覚があります。その言葉を起点にやっとそれぞれが自分の感想や解釈を話し始めるような。「わからなかった」と言うと、「つまらなかった」の婉曲表現だと思われてしまうこともあるのでSNSなどには書きづらいのですが、わからないことをのびのびと話せるリアルのそういう場はとても楽しいものです。

永井
 面白いですね。私もこの本を書くときに「わからない本を書いてやろう」と思っていました。みんなやっぱり「わからない」が好きだし、もっとそれを言いたいんだと思います。さっき哲学の態度の話をしましたが、世界の奥行きを信じられるということが哲学の態度だと私は思っています。わからないと言うときって、そこに奥行きがあるっていうことじゃないですか。
 たとえばここにペットボトルの水がある。「これが何かわからない」「これがほんとうに存在するのかわからない」と誰かが言ったときに、「いやいや、ただのペットボトルの水でしょう」と言ってしまえばそこで行き止まりになります。それを打ち破って、まだ行けるぜ、まだ先があるよ、という奥行きを私たちは真剣に信じてるんですよね。
 本について話すときも「こういう本だね」で行き止まりにせずに、わからない先に奥行きがあるという前提で話ができるというのは楽しいだろうなと思います。

花田
 正解を探すということともまたちょっと違うんですよね。それでいて、あなたがそう思ったんならそれでいいんじゃない、というのとも違う。ほんとうはそれでいいはずなんですけど、あえて「なんでそう思ったわけ?」とその人の領域に入ってみるというか。

永井
 うんうん、そうですね。

花田
 そういえばエッセイの中で、哲学対話を行うときに「人それぞれということにしない」というルールでやっていると書かれていて、面白いルールだなと思いました。
 人それぞれ、って一見多様性を肯定する言葉に見えるし、そういう使われ方のときにはいいのですが、下手をすると誰かと向き合ったり、心配な人に声をかけることをやめるための言い訳に使ってしまう。

永井
「人それぞれじゃん」って、「どうでもいいじゃん」の、ほとんど言い換えの言葉なんですよね。それはやっぱり寂しいです。
 寂しいよ、って思っていたら、ちょうど『「人それぞれ」がさみしい──「やさしく・冷たい」人間関係を考える』(石田光規著・ちくまプリマー新書)っていう本が出て、すごい、これ私じゃん、ってびっくりしました。

花田
 ありましたね。私も何だかそのタイトルが気になっていました。

永井
 寂しい。その言葉に尽きます。寂しいって、どういう道徳的問題があるとか、役に立たないとかじゃなく、ただ寂しいんですよ。
 どうでもいいじゃんって言いたくなる気持ちもわかります。でも、哲学対話は探求である、ということから私は離れられなくて、「答えなんてないさ」という冷笑的な態度ではなくて、答えは今すぐに見つからないだけで必ずどこかにはある、だからそれを信じて探求しようよ、と思います。

花田
 たしかに。たとえば「お金って人を幸せにするかな?」という問いに、「そんなの人それぞれでしょ」と答えてしまったら、一見それは事実のようですが、頭の中で何も思考が膨らまないまま終わってしまいますね。つまらない。

永井
 はい。だから「人それぞれ」をゴールにするんじゃなくて、そこをスタート地点にして、じゃあ人それぞれのその人たちはどこが違うんですかとか、どこだったら私たちは手をつなげるんですかとか、そういうことをしつこく問い続ける。それが私の哲学対話です。


水中の哲学者たち

『水中の哲学者たち』
晶文社

若き哲学研究者にして、哲学対話のファシリテーターによる、哲学のおもしろさ、不思議さ、世界のわからなさを伝える哲学エッセイ。


 
永井玲衣(ながい・れい)
1991年東京都生まれ。哲学研究と並行して、学校・企業・寺社・美術館・自治体などで哲学対話を幅広く行う。独立メディア「Choose Life Project」や、坂本龍一・Gotch主催のムーブメント「D2021」などでも活動。

(構成/花田菜々子 撮影/横田紋子)
〈「STORY BOX」2022年9月号掲載〉

ハクマン 部屋と締切(デッドエンド)と私 第91回
◎編集者コラム◎ 『海とジイ』藤岡陽子