ロスねこ日記 ◈ 北大路公子

第12回 四男の信仰心(後篇)

●四月二十四日

 つる松に私の声は届かなかったのかもしれない。一日で身長がぐっと伸びるとともに、太陽神への帰依は隠しようがなくなってしまった。完全に日光という名の太陽神の教えを求めて身を乗り出している。思えば私は今までシンク下の環境には無関心すぎた。中が本当に真っ暗なのか、居心地はいいのか悪いのか、同居のフライパンやサラダ油はよくしてくれるのか、何一つ考えたことなどなかったのだ。つる松が母親の私より太陽神を信頼するのは当然のことかもしれない。

 それにしても恐ろしいほどの成長速度である。背丈はあっという間に栽培容器の縁を超えてしまった。早く大きくなって太陽神様に会いたいということなのだろう。つる松の心の中にとっくに私はいないのだ。現実を突きつけられた気がして、少しばかり落ち込む。親離れが早いのは悪いことではないのかもしれないが、やはり寂しいことである。

「もう大人になっちゃうの?」

 私の言葉など聞こえないかのように、つる松は太陽神を求めている。その頭のてっぺんに黒い種殻を載せたままなのが、唯一感じられる幼さだ。まるでほっぺたにご飯粒をつけたまま反抗する子供のようだと思う。

●四月二十五日

 つる松を外に出す。これで親のことなどますます見向きもしなくなるが、いつまでもシンク下に囲い込んでいるわけにもいかない。なにしろ身長だけは既に一人前である。兄たちに比べて遜色はない。色白で線の細いところがやや気になるものの、それもつる松が持って生まれた性質であろう。こういう子がいずれすらりとしたイケメンに成長し、女の子がメロメロになるのだ。幼い時に味わった寂しさが翳となって、さらに女心をくすぐる可能性すらある。

 むしろ心配なのは体格ではなく、精神的な問題である。わかってはいたものの太陽神への傾倒が著しい。三男の「まめ松」が「まあ参考程度に」と考えていたのとは明らかに違う種類の入れ込み具合だ。人生すべてを太陽神に捧げていると言っても過言ではなく、メロメロだった女の子が全員サーッと引いていくような熱心さである。見た目としては、強風で根元からなぎ倒されたさとうきび畑。完全にひれ伏している。

●四月二十六日

 ひょっとしてつる松は出家してしまったのだろうか。いくらくるくる容器を回してやっても、次に見る時には再び太陽神にひれ伏している。細身で身軽な身体も幸いしたのだろう。太陽の光を追いかけ、あっという間に向きを変えるのだ。そこには並々ならぬ決意と意志がある。執念と呼んでもいいほどの篤い信仰心である。

 もちろん出家したならしたで構わない。ちょっとくらいは相談してほしかったとの思いもあるが、あの暗いシンク下に差し込む一筋の光を拠り所とし、孤独の中で深い思索への道を歩み始めたのだ。つる松の決断を責めることは到底できない。

 いずれにせよ、我が家から初めての宗教家である。これからつる松は、私や兄弟たちには見えない世界を見つめて生きていくのだろう。太陽神の光を存分に浴びながら、きっと豊かで静かな人生の喜びを味わうに違いない。そう思ってつる松を眺めると、頭に載せたままの種殻も修行僧の証としか思えなくなった。純真さと熱意の象徴である。

●四月二十七日

 と、つる松の信仰を認めたとたん、なぜか太陽神への傾倒が落ち着きを見せはじめた。昨日までどれだけ容器の向きを変えようが、何度置き場所をずらそうが、頑なに太陽神を追いかけてはなぎ倒されたようにひれ伏していたというのに、今日は真っ直ぐ前を向いて立っている。いわゆる「気をつけ」の姿勢。小学校の作文で「きょうつけ」と書いて先生に直されることでお馴染みのあの形である。そうなることを望んでいたはずなのに、実際に背筋を伸ばしたつる松を見ると、そこはかとない不安に駆られるからおかしなものだ。

「何があったの?」

 霧吹きで水を掛けながら問いかけるも、修行僧の口は重い。

「宗教弾圧? それとも破門?」

 そうだとも違うともつる松は言わない。いつもと違うことといえば、頭に載せた修行僧の種殻がいくつも下に落ちていることと、白かった茎の色が全体的にうっすら赤みがかってきていること、そしてよりいっそう背が伸びたことである。この容姿の変化は一体何を意味するのだろう。還俗だろうか。あるいは信仰が新たな段階に入ったのか。たとえば修行者から解脱者へ。教えを請う者から授ける者へ。特別な赤い法衣を身にまとったつる松は、ひょっとすると既に「師」と呼ばれる存在となったのかもしれない。

ロスねこ日記
スプラウト兄弟の写真には、読者諸兄も飽きた頃と思われます。初心に帰り、種をお届けします

●四月二十八日

 以前から「猫さえいれば教」というものを考えていた。辛い時や悲しい時、誰もが抱く「こんな時に猫さえいればなあ」「猫さえいれば全部解決してくれるのになあ」との思い。その疲れた心の隙をつく……じゃなくて疲れた心に手を差し伸べ、お布施をがっぽがっぽ……じゃなくて人々の魂を迷いから解放し、救う宗教である。「師」となったつる松が開祖となってくれないだろうか。

●四月二十九日

 私の汚れた黒い心を知ってか知らずか、つる松が独自の悟りを開いたようだ。茎を上下左右に大きく伸ばし、種殻も盛大に落としている。一糸乱れぬ姿で太陽神にひれ伏していた時とは、まるで別人の自由奔放さである。幼い頃から神を追い続けた結果、彼の中にどんな世界が開けたのか。直に聞いてみたいところであるが、無口なつる松である。それは叶わない。ただ、何かが吹っ切れたことは確かなようだ。

●五月一日

 つる松の奔放さが止まらない。ある茎は天を目指し、ある茎は地を這い、またある茎は身をくねらせてあらぬ方向を見つめている。種殻を脱ぎ捨てた頭には丸い葉が開き、すべてのものから自由になった姿がそこにあった。つる松が今、自らの目指していた境地に到達したかどうかはわからない。ただ一つだけわかることは、彼が宗教者としても食べ物としても完成されたということだ。言い方を変えると「食べ頃」である。収穫してお浸しにした。信念の人にしてはあっさり味であったことを報告したい。

(つづく)
〈「STORY BOX」2018年12月号掲載〉