▽▷△超短編!大どんでん返し▼▶︎▲ 上田早夕里「白い腕」

第15話
上田早夕里
「白い腕」

 私が子供時代を過ごした実家の庭先には土蔵がひとつあった。土壁に漆喰を塗って瓦を葺くタイプの古風な蔵だ。その外観は眩しいほどに白く、遠くからでもよく目をひいた。

 七歳の夏休み、私は蔵のそばでバッタを追いかけているうちに、この蔵の土台の少し上に、鉄格子がはまった四角い穴を見つけた。バッタは左右に跳びはねつつ、その中へ飛び込んだ。穴に顔を近づけると、なんともいえない奇妙な匂いがした。寂しさと苦渋を強く感じる匂いだった。不思議な気分に囚われたそのとき、闇の向こうから白い蛇のようなものがゆっくりと伸びてきて、艶めかしい動きで鉄格子に絡みついた。その動作は、とても小さな子供が、闇の向こうから鉄格子をぎゅっと握りしめたかのようだった。

 私は仰天して縁側から家の中へ逃げ込んだ。居間には誰もいなかった。あの白いものがここまで侵入してきそうな気がして、ますます怖くなった。がたがた震えていると、買い物に出ていた父がビニール袋を提げて帰って来た。蛇が出た、と父に訴えて、私は土蔵を指さした。父はすぐにサンダルをつっかけて庭へ出た。どこ? と訊ねるので、私も庭へ降りて先ほどの場所へ連れて行った。白いものはもういなかった。この穴はなんなのかと私が質問すると、父は換気口だと教えてくれた。土蔵の床下が湿気ないように、小さな穴を作って空気が流れるようにしておくのだと。

 父の話によると床下の空間は狭く、あのような形で鉄格子を掴もうとすれば、子供でも腹ばいになる必要があるようだ。となると、間近に相手の顔が見えていなければおかしい。もし、立った状態で頭上へ手を伸ばしていたのだとすれば、鉄格子がある場所の真下に、それなりの深さを持つ空間が必要だ。私は漫画や映画で観た「地下牢」を頭に思い浮かべた。だが、土蔵内の床には地下室へ続く扉などない。別の場所からも入れない。では、あの腕の持ち主は、どこから床下へ入ったのか。

 好奇心が恐怖を上回った。私は毎日、土蔵の換気口を観察するようになった。私が覗きに行くと、白い腕はいつも闇の向こうから伸びてきて、細い指先でこするようにして鉄格子を握った。

 両親や祖母にこれが見えないのは不可解だった。父は私が白蛇を見たのだろうと結論しており、祖母は「白蛇だったらそれは神様のお使いだから、絶対に触らず、そのままにしておくのだよ」と諭した。母は私が寝惚けて夢でも見たのだろうと笑った。私には、寝ている間に見る夢と現実との区別がつかなくなってしまう瞬間が、確かにしばしばあった。のちに知ったところによると、それは人間の脳にありがちなありふれた現象らしい。

 大人から止められても、私は何度も土蔵の換気口を見に行った。白い腕はいつも同じように穴の奥から出てきた。幾たび目を凝らしても相手の顔は闇の中には見えなかった。ある夜、私は白い腕に追われる夢を見た。ついに鉄格子の外まで伸びた腕が、さらに伸び続け、夕暮れの草原を必死に駆けていく私をどこまでも追ってくるのだ。指までもが長く伸びてゆらゆらと揺れていた。誰かが私の耳元で囁いた。重い、重い、蔵をどけて──と。

 私は泣きながら目を覚ますと、両親と祖母に向かって、土蔵の下に何かがいる、蔵をどけて助けてあげてと訴えた。大人たちは私の真剣さを不気味に思ったのか、業者を呼んで、換気口から床下にファイバースコープを差し込んで探る作業を頼んだ。業者には「蛇がいるかもしれないので気をつけて」と伝えたので、彼らは慎重に作業を進めた。だが何も見つからなかった。父は換気口の前に煉瓦を積みあげ、板で蓋をし、私に対しては観察の禁止を言い渡した。

 数日後。私が住んでいる地方が地震に見舞われ、なぜか土蔵だけが全壊した。両親はこれを機会に蔵の撤去を業者に依頼した。作業員が瓦礫をすべて運び出し、著しく破損した基礎を抜こうとしたとき、その場にいた者は、自分たちの足下を見て一斉に息を呑んだ。

 巨大な生物の真っ白な骨が、完全に揃った状態で大地に横たわっていた。鋭い牙が並ぶ大きな頭蓋骨、太い脊椎と長い尾、直立歩行を可能にする二本の頑丈な大腿骨、長い指を何本もそなえた小さな前脚などが、最近死んだ動物のような生々しさで土中に埋もれていた。警察に連絡したところ、すぐに大学から研究者が駆けつけて調査を始めたが、この生物の正体は判明しなかった。新種の恐竜の化石を発見したのではないかと騒ぎ立てるニュースが流れた。土蔵全体で封じられるような格好で埋まっていたことから呪術的な解釈をする者もいた。

 世間の騒ぎを眺めながら私は思った。人間以外の生き物の幽霊──などというものが、この世に存在する可能性はあるのだろうかと。もし、あるのだとすれば、私はとても貴重な体験をしたことになるのだろう。

上田早夕里(うえだ・さゆり)

兵庫県生まれ。二〇〇三年『火星ダーク・バラード』で第四回小松左京賞を受賞しデビュー。一一年『華竜の宮』で第三二回日本SF大賞を受賞。一八年『破滅の王』で第一五九回直木賞候補。そのほかの作品に『魚舟・獣舟』『リリエンタールの末裔』『深紅の碑文』『夢みる葦笛』など多数。