▽▷△超短編!大どんでん返し▼▶︎▲ 青柳碧人「掌編・西遊記」

第22話
青柳碧人
「掌編・西遊記」

 窓から差し込む月明かりが、やけに明るい夜である。床に堆く積まれた書物の間に寝転がり、孫悟空は瓢箪の徳利から酒を飲んでいた。明日はついに、求めていた水商人と会うことができる。──ほら、やっぱり俺ひとりでもできるじゃないか。

 三蔵法師と仲違いしたのは、もう五年も前になろうか。きっかけは何だったか忘れた。何かにつけて説教を食らわせ、そむけば経を唱えて頭の緊箍児を締め付けるあの坊主に嫌気がさしていたことだけはたしかだ。

「もうあんたなんかお師匠じゃない。俺は、別の道を行く!」

「心を鎮めなさい、悟空。あなたひとりで何ができるというのですか」

 言い合いになってなお落ち着いたその口調に腹を立て、引き止める猪八戒と沙悟浄を殴り飛ばして別れ道を進んだ。十里ほど歩いてたどり着いたのは大陵という村だった。畑は赤茶けて、作物らしきものは何も見当たらなかった。通りがかった若い娘を捕まえてわけを聞くと、この村には井戸がなく、水は北東の街・三間からやってくる水商人から買っているという。ところが大陵と三間をつなぐ、〝黒い筋〟と呼ばれる道の要所に数か月前から妖魔たちが現れ、水商人の行く手を邪魔しており、村に水がやってこないのだという。

「旅のお方、お願いでございます。〝黒い筋〟は私たちの生命線でございます。どうか、妖魔たちを退治し、水商人を連れてきてくださいまし」

 やつれ切った娘は悟空に懇願した。もともと暴れまわるのだけは得意な孫悟空のことである。三蔵法師なくしても人の役に立てるのだといきまいた。一行と別れて以来なぜか觔斗雲は使えなくなってしまったが、構うこともあるまいと〝黒い筋〟を歩き始めた。

 初めに遭遇したのは、槍のように鋭利な葉を持つ吸血胡瓜であった。四か月にも及ぶ死闘の末にそれを退治した後も、砂漠を自在に泳ぐ鮫、空飛ぶ毒雲丹を操る美女、絶望の蜂蜜を弄する養蜂家──想像を絶する妖魔が次々と立ちはだかった。大陵の生命線たる〝黒い筋〟から邪魔者を一掃する。ただその信念のために進み続けること五年。悟空はついに昨日、三間へとたどり着いたのだ。易者と医者を兼ねているという街の長老に訊ねると、水商人には明日会わせてくれると言った。

「それにしても、あの妖魔どもをすべて退治したとは大したお方じゃ。食事と酒を用意するので、今夜はうちの、書庫として使っている離れに泊まってくだされ」

 好意に甘え、悟空はその何万冊もの本のある建物に入った。運ばれてきた料理と酒に舌鼓を打ち、夜が更けてもなお興奮して眠れぬのである。

 ふと、床に無造作に置いてある本に目が留まった。表紙に大きく「手相」という字がある。そういえばあの老人は易者だと言っていた。猿である孫悟空の掌にも、人間と似たようなしわがある。俺の運勢はさぞ優れたものだろう、どれ見てやろうと、悟空は本を開いた。

 おや、と悟空は不思議に思った。描かれている掌の絵の中に、いくつか点が打ってあり、「肝」「腎」などと書かれている。しばらく眺めているうち、ははあツボかと、合点がいった。医者でもある老人は、手相とツボの関係を研究しているのやもしれん。

「ん?」

 手首の中ほどに「大陵」という名のツボがある。さらに、人差し指の付け根から少し下方に、「三間」という名のツボもある。妖魔退治を頼まれた村と、水商人の住むこの街と、その二つがツボと同じ名とはどういうことか──。

「あぁっ!」

 不意に、とてつもなく嫌な思い出がよみがえってきた。──それはもう五百年あまり前のこと。天界の神仙たちを相手に乱暴を繰り返したうえ、身の程知らずにもお釈迦様に楯突いた。世界の果てまで行ってくると觔斗雲を飛ばし、五本の柱に名を書いて戻ってきたが、その結果は恥辱に満ちたもので、反省のために五行山という岩山に閉じ込められたのだ。

 孫悟空の頬を涙が伝った。俺はまた、同じことをしてしまった。五行山から自分を救い出して仏の道を説き続けてくれたお師匠様を裏切り、傲慢にも己の力を過信した。こんな悟空のことを、お釈迦様が見過ごすはずはなかったのだ。この五年間、水商人を求めて歩き続けたこの広い世界は──、道だと信じていた〝黒い筋〟は──!

 窓からの月明かりは一層強く神々しく、神聖な力を帯びてきた。書物に囲まれ、悟空は己の右の掌に目を落とし、嗚咽を漏らしている。彼の視線の先には手首の付け根から人差し指の下まで伸びる、一筋の生命線があった。

青柳碧人(あおやぎ・あいと)

1980年千葉県生まれ。2009年『浜村渚の計算ノート』で第3回「講談社Birth」小説部門を受賞しデビュー。同作はシリーズ化され、ロングセラーに。その他の著書に「西川麻子は地理が好き。」「ブタカン!」各シリーズ、『むかしむかしあるところに、死体がありました。』などがある。