特別インタビュー 早瀬 耕さん『彼女の知らない空』を語る

特別インタビュー 早瀬  耕さん『彼女の知らない空』を語る

 文庫刊『未必のマクベス』がベストセラーとなり、一躍注目作家となった早瀬耕さん。豊富な演劇の知識と、サイエンスの知見を採り入れた密度の高い物語が高く評価されています。このたび、待望の新作『彼女の知らない空』が発表されました。大手企業に勤める人々の憂いと、無自覚に戦争に荷担している人々の実相を重ねた、スケール感のある短編集です。自身も長いサラリーマン生活を経験した早瀬さんに、本作にこめた思いを聞きました。


博物館のネームプレートへたどり着くように書いた

──以前、本コーナーに登場いただいたのは2018年でした。そのときは「次回作はいつになるか未定」というお話でしたが、2年の間に、高質な短編を着実に発表されており、嬉しい限りでした。

早瀬
 ありがとうございます。取材に来ていただいた後の12月に、まず「思い過ごしの空」が『きらら』に掲載されました。ほぼ同じ時期に「東京駅丸の内口、塹壕の中」も書いています。以降、断続的に短編を書いてきた印象です。

──短編集としての全体の構想は、すでにお持ちだったのですか?

早瀬
 特に考えてはいませんでした。執筆のきっかけは、再就職活動でした。20年以上勤めた会社を辞めて、しばらく家で過ごしていました。『プラネタリウムの外側』『グリフォンズ・ガーデン』など文庫は出ましたが、そろそろ仕事を見つけようと、地元で職探しを始めました。でも、なかなかうまくいかず……。前職で苦労した経験もまだ引きずっていたりして、仕事ができなくなった人の物語を、短編で書いてみようと思い立ちました。働くことに対する自分のルサンチマンが、主な動機になっています。

──決して暗いイメージの小説では、ありませんでした。最初に収録されている「思い過ごしの空」は、同じ化粧品会社に勤める夫婦の物語です。高村光太郎の詩を引用して、やるせないなかにも温かみが漂う、早瀬さんならではの筆致が味わえます。

早瀬
 作中に出てくる「カハク」(上野・独立行政法人国立科学博物館)に、たまたま行ったとき、賛助会員の名前を彫ってあるネームプレートを見つけました。そこでふと「ここに連名のプレートを出すような夫婦がいたらいいな」と思いつきました。もし本当にいたら、カハクのなかに名前を残されるのに、どんなエピソードがあったのだろう? と想像を深めていったとき、「博物館に結婚を担保してもらっている夫婦」というモチーフが浮かびました。
 本編の「橋本 理津子・和博」のように、連名のネームプレートを実際に置けるのかどうかはフィクションになりますが、理津子さんと和博さんの名前が記された、その場所へたどり着く気持ちで、ふたりの物語を書いていきました。

取材中1
『未必のマクベス』に登場する「ラジオ・デイズ」のモデルになったバーにて。

──前回の取材では「ハッピーエンドの小説を書きたい」と、お話しされていました。

早瀬
 そのつもりでしたが、いざやってみると、難しかったですね。「思い過ごしの空」と「閑話ー北上する戦争は勝てない」、「オフィーリアの隠蔽」はハッピーエンドになったと思いますが、あとの収録作は僕のルサンチマンが、濃い目に出てしまったように感じます。けれど、夫婦の恋愛小説を書きたい、という気持ちは、全編に共通していました。

──「東京駅丸の内口、塹壕の中」を除き、夫の一人称でとらえた夫婦の話で、まとめられています。

早瀬
 一人称を使ったのは、僕自身ずっと、他人の気持ちはわからないという前提だから、かもしれませんね。けれどもパートナーを信頼して大切にしている、夫の気持ちには嘘はないです。
 一方通行ではなく、相手からも大切にされている。すれ違うこともあるけれど、きちんと気持ちが通じ合っている、夫婦のそれぞれの物語を描きました。

いなくなった人に無自覚な言葉を投げてはいけない

──夫婦の話に並行して、仕事に追いこまれた人々の憂鬱な気分が描出されています。ときに遠い国の戦争の惨状と重なり、ビジネスマンの読者は胸が詰まらされます。

早瀬
 僕も会社勤めをしていたときは、本当に苦しかったですね。朝起きて、まさに戦争へ行くような、重たい気分でした。「東京駅丸の内、塹壕の中」は特に、当時の気分が影響しました。書き進めていくのは結構、辛かったです。
 仕事で苦しむ人たちを描いたのは、理由があります。『未必のマクベス』の読者レビューのなかで、「こんな簡単に人を殺す企業が、あるわけない」「だからリアリティがない」という意見を読みました。それに、すごく落胆したんです。10年ぐらい同じ会社に勤めている人なら誰でも、あるとき前触れなく、同僚が会社からいなくなるという経験をしているでしょう。いなくなった人は、退社だけでなく何らかの事情で亡くなっていることもあります。病気かもしれないし、または自死など……会社の仕事が、命を落とす原因になった場合も考えられます。本当の死でなくても、会社から消えたというだけで、その人は存在を消されています。人ひとりが職場からいなくなったのに、周囲は何の興味も示さない。まるで最初からいなかったかのように、みんな普通に仕事を続けています。それって、本当に普通でいいの? と思います。いなくなった側の人は、なかなか元のようには働けません。再就職は厳しいご時世ですし、アルバイトで食いつなぐことも限界があります。消される側だった僕は、切実にわかります。会社組織のなかで、いったん「消えた」存在にされると、死んだのと一緒じゃないか、と。人ひとりが「消えた」ことに対して、少しも関心がないのは、それこそ社会的殺人ではないか? と問いたい気持ちがあります。一方で、僕自身も消した方、つまり加害者だったことも事実で、自分も問われる側の対象だという自覚は、失いたくないです。

取材中2


 ネットで「人を殺す企業が、あるわけがない」と公言する人たちの無自覚には、怒りというより、ショックを受けました。何か大きな、残酷な行為に、手を貸していることに気づいていない。ふだん物を買ったり食べたりしているだけで、遠い海外の戦争に荷担している、現実社会への想像力のなさに通じます。人が「消えた」事実について、無自覚に意見を言ってほしくない。あなたも誰かの死に、荷担している可能性はありますよ、という自覚は失われてはいけないでしょう。その思いで「東京駅丸の内、塹壕の中」を書き上げました。無自覚についての言及は表題作「彼女の知らない空」など、他の短編にもちりばめています。

世界はいい方向へ進んでいくと信じていた

──早瀬さんなりの問題提起が、今回の短編集にはこめられているのでしょうか。

早瀬
 そういうつもりはありません。基本は、夫婦の恋愛物語を楽しんでもらえる、エンターテインメントを意識しました。
 広告代理店の女性社員のSNSの監視をしなくてはいけなくなった男性の話「オフィーリアの隠蔽」は、僕のなかで理想の上司を描きました。シニカルなことも言いますが、知性的で、ひとつの自覚をもって部下に接しています。パワハラになりかねない指示を出すときも、自覚があるのとないのとでは、受け取る方の気持ちもだいぶ違うでしょう。政治思想がきっかけで諍いを起こした夫婦の話「7時のニュース」は、50歳前後の人なら、より面白みは深まるでしょう。タイトルは、サイモン&ガーファンクルの名曲から引用しています。この曲は「きよしこの夜」のコーラスのバックに、ベトナムへの派兵(増派)やキング牧師のデモなどを報じる、1960年代の夜のニュース番組の原稿が流れています。曲のつくられた時代の背景と、「7時のニュース」本編は密接に関わっています。逆に、元ネタがわからないと、ちょっと伝わりづらい話かもしれません。主人公と僕は、ほぼ同年代です。大学を卒業したのは1991年。冷戦時代の最後となった1980年代を終えて青春期を迎えました。これから世界は、いい方向へ進んでいくという意識が、僕たちの世代には共通していました。でも、バブル経済の衰退やリーマンショックなど、いろんな崩壊が続き、ひどく戸惑いました。決定的だったのは、9.11の同時多発テロでした。ビルが倒壊する映像は、いまだにどうしていいのかわからないぐらい、消化できていません。期待していたのとは反対に、世界は悪い方向へ行っている……でも、まだこれからでも、できることはあるよね? という、50代の夫婦の諦観と再生を「7時のニュース」で描きました。

どこにでもある等身大の夫婦の向かい合い

早瀬
 宇宙飛行士を目指す男性が、27年前にガールフレンドからもらった腕時計の遅れに気づく「彼女の時間」は、実は『グリフォンズ・ガーデン』の裏の話です。登場人物の名前も同じにしました。好きだった相手を忘れていなかったはずなのに、腕時計の時間のずれに気づき、忘れていたことを思い出す、ちょっと言葉では説明しづらい話です。

──宇宙という遠大な舞台で、近づくことも断ちきることもできない恋人たちの普遍的な関係性を描き出した、出色の短編です。

早瀬
 ずっと同じ気持ちだったはずのふたりも、時が経てば、いつかは離れてしまうんです。
 今回の短編集では、一番エンターテインメントらしい短編だと言えるかもしれません。

取材中3


──サラリーマンや夫婦、恋人たちと、いろんな境遇にある人たちが強く共感できる1冊になっています。

早瀬
 ありがとうございます。先にも言ったように、基本は夫婦の恋愛小説です。パートナーのことをきれいだと感じ、慈しむ恋愛感情が失われていない。ケンカはするけれど、結局は仲直りするという、どこにでもある等身大の夫婦の向かい合いを、楽しんで読んでもらえたら何よりです。

──次回作は進められているのですか?

早瀬
 短編をいくつか書いています。形にしたいとは思いますが、先のことは未定です。とりあえず再就職先を見つけ、生活を安定させてから、次を考えます。

──仕事が忙しくなられても、ぜひ創作の手は止められず、新作を読ませてください。

早瀬
 頑張ります。『彼女の知らない空』の表紙には、「Short Stories1」の表記があります。ひとまず今回は、短編集の第1弾です。いつになるかわかりませんが第2、3弾まで書き上げたい。形にできる時期を、僕自身が待っています。

(文・構成/浅野智哉 撮影/浅野 剛)
〈「きらら」2020年5月号にも掲載予定〉

 

早瀬 耕(はやせ・こう)
1967年東京生まれ。1992年『グリフォンズ・ガーデン』で作家デビュー。その後、サラリーマン生活を経て2014年『未必のマクベス』を発表。同作は大藪春彦賞の候補となる。他の著書に『プラネタリウムの外側』など。
 


彼女の知らない空