思い出の味 ◈ 加納朋子

第30回
「すき焼きの化学」
思い出の味 ◈ 加納朋子

 思い出の味、と言われて思い出すのは、子供の頃、家で食べたすき焼きですね。今でもそうですが、当時のすき焼きはとりわけハレ感のある食べ物で、もちろん家族全員が大好物でした。そしてすき焼きに関して思い出すのは、その味よりも父の大変な鍋奉行ぶりでした。

 父は京都の山城生まれ、母は兵庫県神戸市生まれで、当然ながら我が家ですき焼きと言えば絶対に関西風でした。私が割り下の存在を知ったのは、社会人になってからのことです。

 父は地元の国立大で高分子化学を学んだバリバリの化学屋であり、博士号持ちです。彼は、熱々の鍋の中で牛脂が溶け出すと、いきなりこんなことを言い出すのです。

「いいか? 肉の上にまず砂糖。醤油はすぐにかけちゃ駄目だぞ。砂糖が完全に溶けるまで、じっくり待つ。どうしてだかわかるか?」

 私を含む兄弟姉妹はそろって首を振ります。すると父の得意満面の講義が始まるのです。

 肉の脂身の脂肪酸とスクロース、つまり砂糖だな、これが熱によってうんちゃらかんちゃら……とチンプンカンプンな説明をしながら宙に化学式を書いていき(これまたチンプンカンプン)、「これをエステル交換反応と言う。この反応が完全に終わるまで、塩分、つまり醤油を入れてはいけないのだ」と蘊蓄は続きます。これが毎度のことなので、やがて私たちは最初の「どうしてだかわかるか?」のところで元気よく「エステル交換」と答えるようになっていました。

 こんな家に育った私がどうして完全文系人間になったものか、本当に不思議です。生物や科学は割と好きでしたが、化学や物理、ついでに数学も、大嫌いでした。未だにエステル交換なるものの仕組みはさっぱり理解していませんし、それが肝心の味にどの程度影響を与えるものか疑問ではあるのですが、関西風ですき焼きを作る際には、固く父の教えを守っている私なのです。

 やっぱりどうせなら、美味しいすき焼きを食べたいですものね。

加納朋子(かのう・ともこ)

1966年福岡県生まれ。92年『ななつのこ』で鮎川哲也賞を受賞しデビュー。95年「ガラスの麒麟」で日本推理作家協会賞(短編および連作短編集部門)受賞。近著に『いつかの岸辺に跳ねていく』。

〈「STORY BOX」2020年4月号掲載〉
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