▽▷△超短編!大どんでん返し▼▶︎▲ 辻 真先「忘却とは」

第7話
辻 真先
「忘却とは」

「忘却とは──」

 それが女房の口癖だった。

「忘れ去ることなり」

 当たり前だろ。耳にする都度吹き出しそうになり、懸命に歯を噛みしめたもんだ。今となってはどうでもいいが、三年前に亡くなったあいつは、忘れッぽい癖にこの言葉だけは覚えていた。俺たちの世代なら誰もが知る、菊田一夫の放送劇『君の名は』冒頭のナレーションだ。放送劇なんて死語に近いから、佐田啓二と岸惠子が主演した松竹映画の原作と説明した方がよさそうだ。佐田啓二も死んでいる。その息子が映画俳優になってからも久しい。時はうつろうものさ。

 最近になって『君の名は』の映画タイトルをしばしば聞いたが、アニメーションだそうだ。女房が聞いたらさぞたまげたろう。

「まあ、『君の名は』が漫画映画になるなんて」

「いやいや、中身はまるっきり違う。ただ名前だけがいっしょで」

 と説明したいところだが、待てよ。題名になにか付録がついていたぞ。『君の名は。』『君の名は?』『君の名は!』

 どれだっけか。思い出そうとしたがわからない。まあ、どうでもいいか。

 だいたいこのごろの映画の名ときたら、わけがわからん。孫が見てきた『トゥームレイダー ファースト・ミッション』の題を覚えようとして舌を噛んだ。これがアニメとなると、もっといけない。アイマス、アイマスというから誰に逢うのかと思ったら、『アイドルマスター』の略だった。

 どうでもいいが、なんでもかんでも呼び名を端折ってすむと思うな。DVDやLEDくらいはまあ許すが、LANといわれたときは、俺はもう少しで走りだしそうになった。アルファベット三文字の言葉なぞ、PTAかDDTぐらいしか覚えておらん。ふむ、おかしなものだ。毎日のように新聞やテレビで見聞きしても忘れるのに、七十年昔聞いた言葉は忘れていない。まあ、そんなことはどうでもいいが。

 それにしても近ごろのカタカナ言葉ののさばりようはどうだ。「フィッシング詐欺」なら、確かに俺たちと関係ありそうだが、パソコンなぞさわったこともない俺に、「マウスを使ってドラッグ・アンド・ドロップをやってみなよ」と孫がいう。

 ネズミがクスリを齧ろうと飴玉を嘗めようと、俺が知るか。怒鳴ってやったら、アナログだなあ、少しはデジタル爺になれよと笑われた。いまさらカタカナ言葉を覚えても、右から左に忘れるだけだ。

 タスクバーだのステータスバーだの、わかるとすればイナイイナイバーだ。ダウンロードとかアップロードとか、どの道を行けというんだ、俺が記憶しているのはロードショーくらいだ。ロードショーといえば、『我等の生涯の最良の年』はよかったなあ。原題のまま広告されたら、俺は決して見に行かなかった。そうとも、あのころ日本でつけた映画の題には味があったよ。『ウォータールー橋』は『哀愁』と名付けられ、『短い邂逅』が『逢びき』というタイトルで喧伝された。『ぺぺ・ル・モコ』も『望郷』の題名だから当たったのだ。そう教えてやったら孫め、「ペペって望むこと? モコって生まれ故郷なの?」ときた。今どきの若者はモノを知らん。

 教えてやろうと思ったが、主人公の名前だったかな──当の俺も曖昧だ。まあそんなことはどうでもいい。要するに、俺がいいたいのはだ。

 日本人の心にピンとくるのは、日本語に限るということだ。先祖代々の言葉だからこそ、音が耳から胸へじかに響くのよ。昨日今日覚えたゲームだのルノベ──いや、ラノベだったか、そのあたりの出来立ての言葉とはわけが違う。

 われわれが普通に使っている「小説」だの「映画」だの「演劇」だの、どれも昔の日本人が苦労して造った言葉じゃないか。それを今の連中は言葉造りに苦労もせずホイホイ片仮名ですませている。昔のことは覚えていても、新しいことなぞ知っちゃいない。俺がそういいたくなる気持、わかるだろう。

 今日は家中がざわついていると思ったが、見たことのある爺の写真が正面に飾られていた。なんだ、黒枠の中身は俺じゃないか。ああ、おかげで思い出したよ。ゆうべ俺は脳卒中で死んだんだ。

 ふん、そんな新しいことを覚えていられるか。今さらどうだっていい。

辻 真先(つじ・まさき)

一九三二年愛知県生まれ。名古屋大学卒。『鉄腕アトム』などテレビアニメの脚本家として活躍後、七二年『仮題・中学殺人事件』を刊行。八二年『アリスの国の殺人』で第三十五回日本推理作家協会賞を受賞。「キリコ・薩次」や「迷犬ルパン」シリーズなど著書多数。最新刊『深夜の博覧会』を八月下旬に刊行予定。