MM 第二回

 

     2

 

 店の名前は「ベルサイユ」。

 かなり気取った名前だけど、中は宮殿というよりは、ヨーロッパの古びた町にある素朴な骨董品屋といった感じだった。それまで、ぼくはこの店に一度も足を踏み入れたことがなかった。こういった大人びた店は、どことなく近寄りがたい気がしたし、ささやかなぼくの小遣いじゃ、きっとコーヒー一杯だって飲めやしなかっただろうしね(というか、そもそもコーヒーは苦くて嫌いだ)。

 もちろん、ここは彼女のおごりだった。彼女は店の常連みたいで、ガンジーみたいな顔をしてガンジーみたいな眼鏡を掛けたマスターと親しげに声を掛け合っていた。

 店内はテーブル席が三つと、あとはカウンター。ぼくらは一番奥のテーブルに座った。他に客はひとりだけ。カウンターでフランク・ザッパみたいな顔をしてフランク・ザッパみたいな髭を生やした青年がコーヒーを啜りながら静かに本を読んでいた。

「なんにする?」と彼女が訊いた。

「ぼく、コーヒーは嫌いなんだ」

「あら残念ね。この店のコーヒーとっても美味しいのに」

 まあいいわ、と彼女は言った。

「だったら、コーラフロートとかどう?」

「うん、いいね。それにするよ」

「じゃあ、コーラフロートふたつ!」と彼女はカウンターの奥にいるマスターに注文した。

「きみも」とぼくは言った。

「コーヒー嫌いなの?」

「好きよ」と彼女は言った。

「あなたに」と彼女は言った。そこで彼女は顔をしかめた。

「合わせただけ」

「あ、そう」

 ねえ、と彼女がテーブルに身を乗り出し、ぼくに顔を近づけるようにして言った。大きな目だな、とぼくは思った。アラブかどこかの猫みたいだ。

「そんなかしこまらないで、もっとフランクにいかない?」

「つまり?」

「まずは名前で呼び合おうよ。きみとか、あなた、じゃなくてさ」

 そう言って彼女はゲーと吐く真似をした。

「そうなの?」

 彼女がぷっと吹き出した。

「なにが、そうなの? よ」

「だってほら、ぼくらそんなに親しくないじゃん」

「なら、これから親しくなればいいでしょ? 佐々くんて下の名前はトキオだったよね」

「そう。時間の時に、一郎とか二郎の郎」

「珍しい名前だよね」

「お祖父ちゃんが付けてくれたんだ。時計職人だったから」

 なるほど、と彼女は言った。

「でも、これってジロウとも読めるよね」

「うん、よく間違えられるよ」

「じゃあ、わたしも間違えることにする」

「うん?」

「これから、佐々くんのことはジロって呼ぶわ」

「ウが抜けてるよ」

「むかし家で飼っていたスピッツがシロって名前だったの。なんか、その響きが口に慣れちゃっててさ」

 ひどいな、とぼくは思った。ぼくはペットの犬と一緒かよ? まあ、いいけど。

「南川さんはモモだよね」

「そう、桃太郎の桃」

「3月3日生まれとか?」

「だから」と彼女は言った。

「桃太郎って言ったじゃん。5月5日に生まれたの」

「うわっ、男らしいね」

「うちの親も気が利かないよね。端午の節句に桃じゃあさ、そのうち鬼でも成敗しに行きましょうか、ってそんな感じになっちゃうよ」

 それじゃあ、ぼくはきび団子に釣られたお供の犬になってしまう。

「ほんとは、お父さんが好きだった本に出てくる女の子の名前なんだって。勇気のある子に育ってほしいって」

「ああ、それ知ってる」

 へえ、と彼女は言った。

「まあ、そんなとこよ」

 

 そして、話は本題に移った。

「お願いっていうのは、ちょっと書いてほしいものがあってさ。ジロは、そういうの好きなんでしょ?」

 なんで知ってるんだろう? とくに宣伝もしてないのに。

「書くって、なにを?」とぼくは訊いてみた。

「伝記のようなものよ」

「伝記? 誰の?」

「わたしの」と彼女は言った。

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