【著者インタビュー】林 真理子『愉楽にて』

“素性正しい大金持ち”の生態と官能美を描き、今までにない大人の長篇恋愛小説を仕立てた林真理子氏。日経朝刊連載時から大きな話題を呼んだ本作で、男性読者も増えたそうです。

【ポスト・ブック・レビュー 著者に訊け!】

美と恋に生きる男たちが情事の果てに見たものは――日経朝刊連載時より話題の
絢爛たる官能美を描く長篇

『愉楽にて』
愉楽にて 書影
日本経済新聞出版社
1800円+税
装丁/鈴木成一デザイン室

林 真理子
04号_林 真理子
●はやし・まりこ 1954年山梨県生まれ。コピーライターを経て、82年に初エッセイ集『ルンルンを買っておうちに帰ろう』を発表。85年「最終便に間に合えば」「京都まで」で直木賞、95年『白蓮れんれん』で柴田錬三郎賞、98年『みんなの秘密』で吉川英治文学賞、13年『アスクレピオスの愛人』で島清恋愛文学賞、18年紫綬褒章。『不機嫌な果実』『コスメティック』『anego』『下流の宴』『アッコちゃんの時代』『本朝金瓶梅』『野心のすすめ』等、話題作多数。165㌢、O型。

熟成肉のように優雅な退廃に向かう人の姿をこんな時代だからこそ描きたかった

 「今朝の日経、読んだ?」、「昨日の大河、観た?」という2つの話題の中心に、平成最後の年の彼女はいた。
「去年は私にしては珍しく、男性読者が増えた年でした。へえ、林真理子ってこういう小説も書くのかと、サイン会にも大勢来て下さって。まさに『愉楽にて』と『西郷どん』さまさまです(笑い)」
 濃厚な性描写と日経新聞朝刊の取り合わせといえば、故・渡辺淳一作『失楽園』(95年〜)以来の系譜。その継承を意識したという本作では、共に50代の大手製薬会社9代目〈久坂隆之〉と名門製糖会社3代目〈田口靖彦〉を軸に〈素性正しい大金持ち〉の生態を描き、連載当初から注目を集めた。
 ことに早々に〈若隠居〉を公言し、シンガポールや京都で情事や趣味にふける久坂は、国際経済の激動を尻目にこんなことを言う。
〈たぶん百年後、日本語も日本も無くなるよ〉―。
 そのけだるく、何もかもに飽いたような姿は、今の日本経済や社会そのもの?

「私はよく、『山梨のイモのくせにセレブ気取り』って悪口を書かれるんですけど、地位も教養もある方たちの会合に、なぜかお誘いいただくことが多いんです。
 まあヤクザな作家を面白がってのことでしょうけど、お付き合いにはお金もかかりますし、なんでこんなに働いたのに貧乏なんだろうと思うくらい、今回は元手がかかっています(笑い)」
 シンガポールの一等地に建つ時価15億の超高級マンションに住む久坂は、京大時代から能に親しむ風流人。そんな長男の適性を見切った父親が弟を社長にすえて以来、寛政年間創業の久坂薬品は中国進出も果たし、副会長の久坂の資産は増える一方。慈善事業に忙しい妻を東京に残し、娘は留学中という悠々自適の毎日だ。
 そんな彼の周りには面白いように女が寄ってきた。暇を持て余した駐在員妻や野心旺盛な外資系社員など、女たちは一時の快楽を貪るように体を開き、執着心がないのはお互い様だった。
「いわゆる女好きな人って、ガツガツしてないんですよ。特別な美男子じゃなくても女の人が自然に寄って来て、深追いしないからこそ次の相手が日替わりで現れる。
 モデルはいたりいなかったりですが、私が見聞きしたお金持ちの話を元にはしているので、わかる人にはわかるかもしれません」
 一方、明治以来の製糖会社の三男で、現在子会社の社長を務める田口は、妻を膵臓癌で亡くしたばかり。東大卒業後、スタンフォード留学中に久坂と出会い、当時同棲中だったブルガリア人留学生〈モニカ〉との結婚を実家に猛反対されて母方の遠縁の娘と見合いで結ばれた彼は、子供はないなりに平穏に暮らしてきた。が、その妻が突然病に倒れ、莫大な遺産と、〈私はずっと幸せではなかった〉という言葉を残して逝ってしまう。彼を溺愛する母親は再婚を勧めたが、なかなかその気になれない中、久坂や名門割烹の御曹司〈山崎〉らと訪れた京の花街で、40代の芸妓〈豆孝〉と出会うのだ。

基本的に作家は両性具有です

 年のわりに初心うぶな田口と久坂の対比、また山崎たち御曹司軍団の遊びっぷりや京都独特の諸々の作法には、常人には敷居が高いだけに驚かされることしきりだ。
 その一つが〈お風呂入り〉。前夜、祇園でしたたかに酔い、ふと気づくと局部を〈紅白の熨斗のしと紐でリボン結びされていた田口は、それが旦那衆や芸妓たちの悪ふざけだと知る。そして翌日、女将共々田口の宿泊先に詫びを入れにきた芸妓たちは彼に風呂を勧めたばかりか入浴を共にし、田口は40にしてはみずみずしい豆孝の裸を初めて目にするのだ。
「実はこれ、京都では公然の秘密だったらしく、先日も置屋さんで言われました、『まあ林さん。いろいろと書いてもろて』って(笑い)。
 結局、それが元で田口は豆孝の旦那になるんですが、その話を女将さんが何処で切り出すかとか、細部には徹底的にこだわりました。これについては、ある女将さんに聞いて八坂神社の裏の甘味屋さんにしました。そのお店には割烹着姿のお婆さんがいて、奥に個室があってっていう、京都ならではの風情を、作品内で堪能していただければ嬉しいです。
 彼らが選ぶワイン一つにも神経を使いました。名家の方って、高価ならば何でもよしということではないんですよね。昔馴染みの店や、代々の繋がりに重きを置く贅沢さと、人気店を軒並み貸し切りにする今時のIT長者との違いも、私はいい悪いじゃなく、面白いなあと思うんです」
 女も食も既に食い尽くし、情熱を見失ったかのような久坂の造形は、『西郷どん』、『白蓮れんれん』といった清新な時代を描いた従来作とは対照的だ。その凪いだような質感こそが、林氏の目に映るなのだろうか。
「確かに元気はありませんよね。日本経済も、年金や病気の特集が目立つ最近の週刊誌も(笑い)。
 ただそれも成長から成熟に向かう通過点かもしれず、ある映画会社の社長さんは、この小説は滅びゆくイタリアの没落貴族を描いたヴィスコンティの『山猫』だ、とおっしゃっていた。久坂のように若くて綺麗な女より、心身の成熟を好む価値観が浸透しつつあるのも遅すぎるくらいだと私は思うし、それこそ熟成肉のように、静謐で優雅な退廃に向かって行く人々の姿を、こんな時代だからこそ描いてみたかったんです」
 他にも漢詩を愛し、その才気と美貌で男たちを虜にする上海セレブ〈花琳〉や彼女の秘書で『源氏物語』の末摘花を思わせる濡れない女、、、、、〈洋子〉、湿度の高い豆孝の嫉妬など、林氏は女の手の内と、意外にも冷徹な男の視線の両方に目を配り、本書を今までにない大人の恋愛小説に仕立ててゆく。
「基本的に作家は両性具有ですからね。女が強かなら男も強かで、なぜか私には両方の情報が入ってくる。
 とにかくここ2年は人に会っては書き、資料を読んでは書きの連続でしたが、渡辺先生に生前、言われたんです。読者からお預かりした印税は作品に還元してこそ作家だって。私もそろそろ老後に備えなければいけない年齢ではあるのですが、時を忘れて別世界に遊べるのも小説の醍醐味ですし、今回はいいお金の使い方をしたと思っています」
 若くもなく、かといってまだ終わりも見えない性を、彼らはなおも生きていた。その事件も起伏もない愛欲の世界は古の王朝絵巻すら思わせ、溜め息が出るほど甘美で、取りとめがない。

●構成/橋本紀子
●撮影/三島正

(週刊ポスト 2019年2.1号より)

初出:P+D MAGAZINE(2019/06/04)

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