佐藤 優「危機の読書」〈第10回〉コロナ禍と国家論

危機の読書

今月の一冊
アーネスト・ゲルナー/加藤節監訳『民族とナショナリズム』(岩波書店、2000年)


民族とナショナリズム
ナショナリズムとは、第一義的には、政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければならないと主張する一つの政治的原理である。

 コロナ禍によってグローバリゼーションに歯止めがかかった。その結果、国家機能が強まった。近代の国家はナショナリズムと結びついている。ナショナリズムが暴発した結果が20世紀に起きた二度にわたる世界大戦だ。アメリカ、中国、韓国においてもナショナリズムが強まっている。ここで今一度、ナショナリズムについて、深く考えてみることが、危機の時代に必要な作業と思う。

 この連載で取り上げるのは、イギリスの社会人類学者で哲学者のアーネスト・ゲルナー(1925年12月9日~95年11月5日)だ。ゲルナーは、フランスのパリでユダヤ人の家庭に生まれたが、生後すぐにチェコスロバキアに移住し、プラハで育った。1939年にドイツのプラハ占領で、ユダヤ人に危険が迫ったので、ゲルナー一派はイギリスに移住した。第二次世界大戦でゲルナーはイギリス軍に志願し、北アフリカのサハラ砂漠で戦車兵としてドイツ軍と戦った。戦後は、オックスフォード大学とロンドン大学で当初、哲学を学んだが、当時、有力だったヴィトゲンシュタインの学派と波長が合わずに、社会人類学に専攻を変えた。エディンバラ大学、ロンドン大学を経て84年にケンブリッジ大学社会人類学教授に就任した。東西冷戦が終結した後は、93年にプラハに新設された中央ヨーロッパ大学ナショナリズム研究センター所長に就任したが、95年に急逝した。

 1983年に上梓した『民族とナショナリズム』は、ナショナリズム論の古典として確固たる地位を築いている。この本には註がない。表面上は、学術書ではなく一般書のように見える。文章も難解ではない。しかし、内容は高度の教養を持っていなくては理解出来ない。より正確に言うと、読者の教養のレベルによって、本書から得られる情報は異なってくる。この連載では、ゲルナーのテキストを、コロナ禍で直面する危機からどのようにすれば、われわれは抜け出すことが出来るかという視座から読み解いていきたい。

 ゲルナーは、〈ナショナリズムとは、第一義的には、政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければならないと主張する一つの政治的原理である。/感情としての、あるいは運動としてのナショナリズムは、この原理によって最も適切に定義することができる。ナショナリズムの感情とは、この原理を侵害されることによって喚び起される怒りの気持ちであり、また、この原理が実現されたときに生じる満ち足りた気分である。ナショナリズムの運動とは、この種の感情によって動機づけられたものにほかならない〉と説いた。

 ナショナリズムは、政治的な単位と民族的な単位の一致が壊されたという否定的感情から怒りを伴って現れる。感情的な現象だから、純粋に学問的に扱うことが難しいのだ。

 では、具体的にどのような場合に、人々はナショナリズムの原理が侵害されたと考えるのであろうか。ゲルナーはこう説明する。

〈ナショナリズムの原理は、次のような様々な方法によって侵害されうる。ある既存の国家の政治的境界が、その固有の民族のすべての構成員を包含するのに失敗する場合、あるいはその国家が彼らのすべてを包含することはできたが、同時に多少の外国人を含んでいる場合、あるいは国家がこの両方に同時に失敗し、民族の構成員すべてを組み込まず、その上、民族外の少数の人々を含むといった場合がそれである。さらには、一つの民族が外国人と混在することなく複数の国家に分かれて住み、したがってどの国家も自分たちこそが唯一の民族国家であると主張できない場合もある。/しかし、ナショナリズムの原理を侵害する方法のうち、ナショナリズムの感情がとりわけ敏感に反応するある一つの特殊なものがある。すなわち、ある政治的単位の支配者たちが、被支配者の多数が所属するのとは別の民族に属している場合がそれであって、これはナショナリストたちにとって、政治的な公正さに対するとりわけ耐えがたい侵犯であるとみなされる。そして、こうしたことは、民族の領土がより大きな帝国に統合される場合、あるいはある異民族集団が地域的な支配を行う場合に起こりうるのである〉

米英で植民地支配に相違

 日本と韓国の関係が難しいのは、大日本帝国が朝鮮半島を植民地支配したときの構造が、ある政治的単位、すなわち朝鮮の支配者たちが、被支配者の多数が所属する朝鮮人/韓国人ではなく別の民族に属している日本人だったからだ。植民地時代の歴史の記憶が長く続くのは日本と韓国に限られた特殊な問題ではない。イギリスとアイルランド、ロシアとポーランドの関係も構造的に日韓関係とよく似ている。

 ナショナリズムの前提は国家が存在することだ。

 ここで国家について掘り下げて考えてみることにしよう。

〈国家についての議論は、マックス・ウェーバーの有名な定義、つまり国家とは、社会の中で正統な暴力を独占的に所有する機関であるというものから始めることができよう。この定義の背後にある観念は簡潔で魅力的なものであって、われわれの多くが住んでいる、あるいは住みたいと希求するような秩序のよく保たれた社会では、私的、あるいは党派的な暴力は正統性を持たないというものである。紛争そのものは正統性を持たないわけではないが、それが私的、もしくは党派的な暴力で解決されることは合法的ではない。暴力は中央の政治的権威と、その権威によって権限を委任された者とによってのみ、行使されうる。秩序維持のための様々な制裁力のうち、その究極のもの──実力──は、社会のなかにある特別で明確に規定された、そして十分に集権化され、規律のある一つの機関によってのみ適用されるのである。その機関、あるいは機関の集合体こそが国家にほかならない〉

 国家の特徴が暴力を独占的に所有することであるという見方はウェーバーだけでなくレーニンもしている。具体的には、国家は国民に徴兵を義務付けることができる。

 戦場に征けば、死ぬこともある。国家は国民に命を捨てることを強要する力がある。また、国家には徴税権がある。国民から税を強制的に取り上げることが可能なのも、国家が暴力を独占的に所有しているからだ。税を逃れようとする者を国家は、逮捕、勾留し、起訴することができる。徴兵と徴税に国家による暴力の独占が端的に示されている。

 もっとも、暴力を独占していないような国家も少数ながら存在する。その例として、ゲルナーは第一次世界大戦後、イギリスのイラク統治を挙げる。〈第一次世界大戦後、イギリスの委任統治領となっていたイラク国家は、襲撃者たちが遠征の前と後とに最も近い駐在所に報告し、殺人と略奪とのきちんとした官僚的な記録を義務として残すという条件の下に、部族による襲撃を大目にみていた。つまり、国家の中には、正統な暴力の独占を実行する意志もしくは手段を欠きながら、なお多くの点で「国家」と認めうるものがあるのである〉

 当時のイギリスは帝国だった。大英帝国が植民地に求めたのは宗主国(本国)に対する忠誠心だけで、植民地に人権や民主主義的統治制度を確立する必要を感じなかった。

 この点が、自らの影響力が及ぶ国に自由と民主主義という原理を定着させようとするアメリカとは根本的に異なる。米英は特殊な同盟関係にあり、言語も共通だが、政治文化はかなり異なる。

国家は不可欠ではない?

 さて、国家について理解するためには、国家と社会の関係について整理しておく必要がある。一昔前まで、歴史においてはマルクス主義的な唯物史観の影響が強かった。そのため、歴史は、原始共産制、奴隷制、封建制、資本主義というように発展していくという見方が未だ根強く存在する。しかし、このような見方は実証的に支持されない。ゲルナーの見方では、前農耕社会(狩猟・採集社会)、農耕社会、ポスト農耕社会(産業社会)という3段階の発展が人類史で起きた。

〈人類は、歴史の中で三つの基本的な段階を経験してきた。前農耕社会、農耕社会、そして産業社会である。採集狩猟集団は、国家を構成するような政治的分業を受け入れるにはあまりにも小規模であり、過去においてもそうであった。したがって、彼らにとっては、国家の問題、つまり、安定し専門化した秩序強制の組織の問題は本当には起らない。対照的に、決してすべてのではないが、多くの農耕社会は国家を与えられてきた。これらの国家のあるものは強く、あるものは弱く、またあるものは専制的で、あるものは遵法的であった。その形態はそれぞれ非常に異なっている。人類の歴史における農耕社会の段階は、国家の存在自体がいわば選択肢であるような時期であった。さらに国家の形態は著しく多様であった。採集狩猟の段階では、この選択肢は存在しなかったのである。/それに対し、ポスト農耕社会、つまり産業社会では、再び選択肢が失われた。しかし、今度は、国家の不在ではなく存在が避けられないものとなったのである〉

 図式的に整理してみよう(○存在、×不存在、△いずれの可能性もある)。
        社会   国家
狩猟・採集社会 ○    ×
農耕社会    ○    △
産業社会    ○    ○

 21世紀の日本は産業社会だ。従って、国家は必ず存在する。だからわれわれには国家が人間共同体にとって不可欠と思い込んでしまうが、理論的にそれは間違いだ。国家が存在しなくても人間は生きていくことができる。2011年3月11日の東日本大震災で被災した東北地方の一部地域では、1~2週間、国家機能が停止した。しかし、人々の良識によって秩序が維持された。こういう緊急事態に国家が存在しなくても社会が機能することをわれわれは体験する。しかし、そのような状態が長期間続くことはない。

 重要なのは、国家が存在しないときにナショナリズムは発生しないという事実だ。もっとも国家があれば常にナショナリズムが生まれるわけでもない。

(2021年1月29日脱稿)


「危機の読書」アーカイヴ

 

佐藤 優(さとう・まさる)

1960年東京都生まれ。作家、元外務省主任分析官。同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省入省。在ソ連日本国大使館でソ連崩壊を目撃。『自壊する帝国』にて大宅賞、新潮ドキュメント賞受賞。『国家の罠』『獄中記』『十五の夏』など。

〈「STORY BOX」2021年3月号掲載〉

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