佐藤 優「危機の読書」〈第11回〉去勢の意味

危機の読書

今月の一冊
アーネスト・ゲルナー/加藤節監訳『民族とナショナリズム』(岩波書店、2000年)


民族とナショナリズム
民族と国家とは、同じ偶然から生れるものでもない。
―『民族とナショナリズム』より

 現代に生きるわれわれにとって、いずれかの民族に所属することは、当たり前のように思える。これが当たり前でないことに気付くことが重要とアーネスト・ゲルナーは指摘する。

〈人は一つの鼻と二つの耳とを持つように、ナショナリティを持たねばならない。それらのうちの個々のものを欠くことは考えられないわけではなく、実際に時折起ることではあるが、それは何らかの災難の結果起るものであり、またそれ自体が一種の災難なのである。こういったことはすべて当たり前のように思えるが、残念ながら真実ではない。しかし、これが、あまりにも明らかな真実であると思われる、、、、ようになったこと自体が、ナショナリズムの問題の一つの側面、あるいはその中心を占めるものなのである。民族を持つことは、人間性の固有の属性ではないにもかかわらず、今ではそう思われるようになっているのである〉(アーネスト・ゲルナー[加藤節監訳]『民族とナショナリズム』岩波書店、2000年)

 特定の民族に所属しているという意識を持っている人たちは、当該民族が遥か昔から存在したと思っている。しかし、歴史実証的に見るならば、民族は1789年のフランス革命の頃から流行になった近代的現象なのだ。ちなみに民族は、国家が不在の状況では生まれない。

 しかし、国家があれば必ず民族が生じるということでもない。だから民族と国家の関係について考察することが重要になる。

〈民族や国家が、あらゆる時代にあらゆる状況の下で存在するわけではない。さらに、民族と国家とは、同じ、、偶然から生れるものでもない。ナショナリズムは、民族と国家との結びつきは運命づけられていると主張し、一方が欠けると、他方も不完全なものになり、悲劇が生じると言う。しかし、この二つが互いに不可欠なものとなる前に、それぞれが出現しなければならず、しかもその出現は、相互に独立で偶発的なものであった。国家は明らかに民族の支援なしに現れた。また、ある民族は明らかに自分たちの国家の祝福を受けずに現れている。近代的な意味での民族という規範的な概念が、それに先立つ国家の存在を前提としていなかったのではないかという問題は、さらに議論されなければならない〉

 ゲルナーの理解によれば、国家と民族は起源を異にする。この連載の目的は民族について考察することなので、国家については、これ以上、踏み込まずに、民族と国家は原理的に別な存在であるという前提で議論を進めていこう。

 さらにゲルナーは、民族についての暫定的定義を定めておく必要があるとする。

 しかもその定義が2つある。読者を落胆させてしまうことになるが、この本を最後まで読んでも民族の明確な定義は得られない。

 なぜならゲルナーは、民族について「~でない」「○○でない」という命題を重ねた後に残る否定神学的なものと考えているからだ。しかし、民族についてまったく無定義な状態で議論を進めても、読者一人ひとりが民族について異なるイメージを持ちながら議論が空中戦のようになってしまうことを恐れて、暫定的定義を定めるのである。

 ちなみに論壇で行われている民主主義、自由、階級、イスラム教などについての議論は、暫定的であっても定義がなされずに行われている。

 その結果、各人の独断を主張し合う形での空中戦になってしまう。空中戦型の論戦から知的に得られる内容はほとんどない。

民族に関する暫定的定義

 それでは、民族に関するゲルナーの暫定的定義を見てみよう。

〈だとすれば、偶然的でありながら、われわれの時代においては普遍的で規範的に見えるこの民族という概念とは、いったい何なのであろうか。以下の二つの定義について議論することは、それらが当座しのぎで一時的なものであるとしても、このとらえどころのない民族という概念に焦点を合わせるのに役立つであろう。 

  ①二人の男は、もし、彼らが同じ文化を共有する場合に、そしてその場合にのみ、同じ民族に属する。その場合の文化が意味するのは、考え方・記号・連想・行動とコミュニケーションとの様式から成る一つのシステムである。

 ②二人の男は、もし、彼らがお互いを同じ民族に属していると認知する、、、、場合に、そしてその場合にのみ、同じ民族に属する。換言するならば、民族は人間が作る、、、、、、、、のであって、民族とは人間の信念と忠誠心と連帯感とによって作り出された人工物なのである。(例えば、ある領域の住人であるとか、ある言語を話す人々であるとかといった)単なる範疇に分けられた人々は、もし彼らが、共有するメンバーシップの故に、互いにある相互的な権利と義務とを持っていると固く認識するならば、その時、民族となる。ある範疇の人々を民族へと変えていくのは、お互いがそのような仲間であるという認知であって、何であれ、彼らをメンバー以外の人々から区別するような他の共通する属性ではないのである。

 一方は文化に、他方は意志に力点を置いた以上二つの仮の定義は、それぞれ長所を持っており、どちらもナショナリズムを理解するのに真に重要な要素を取り出している。しかし、そのいずれもが十分ではない。第一の定義の前提にある規範的というよりは人類学的な意味での文化の定義は、周知の難点を含み、満足のいかないものである。この問題に接近するには、形式的に定義することをあまり試みることなしにこの言葉を用い、文化が何をなす、、のかを探っていくのが最良の途であろう〉

 ①の定義には、民族は地理や経済、共通の文化などを強調するスターリンの民族定義が当てはまる。一般にマスメディアで用いられる民族の定義がこれだ。

 もっともこの民族の前提とされる文化について、無定義であることが、理論的には大きな弱点である。

 ②の定義は、アカデミズムにおいて民族を扱う人々が好む。「民族とは想像上の政治的共同体である」というベネディクト・アンダーソンの定義もこの類型に属する。

 もっとも意志があれば民族ができるということにはならない。民族は意志を持つ人々の共同体だが、意志を持つ人々の共同体が民族を形成できるとは言えない。民族と意志の非対称性をこの定義では説明できない。

 ゲルナーは、国家があるが民族が形成されなかった前近代的(農耕)社会の構造について考察する。ここで鍵になる概念が去勢だ。

〈中央集権国家の観点からすると、主要な危険は、ずっと以前にプラトンが気づいていたように、軍事または書記の官職保有者が、特定の血縁集団と結びついて政権を獲得したり保持したりすることである。これら血縁集団の利害のために、官僚たちは義務の厳格な軌道から逸れがちになり、また同時に彼らの支援によって官僚は時にあまりにも多くの権力を帯びがちになるのである。/この広まりやすい危険に対抗するために採用される戦略は、細部においては異なっていても、一般的には去勢化、、、として特徴づけられる。これは戦士・官僚・聖職者からその幼少のうちに先祖か子孫、またはその両方との関係を奪うことによって血縁的なつながりを切断しようという考え方に立っている。利用されるテクニックには次のようなものがある。宦官のばあいは、肉体的に子孫を所有することが不可能になる。聖職者の場合、その特権的地位は独身制に条件づけられ、そのため子孫の存在を公言することは防止される。外国人の場合、その血縁的つながりは遠く離れているので安全であるとみなされることが多い。あるいは別の仕方で権利を剥奪されたり締め出された集団の成員の場合、彼らは雇われた国家から切り離されると無力であろう。別のタイプのテクニックは「奴隷」の採用である。彼らは事実上特権的で勢力があったとしても、国家によって「所有された」存在であり、技術的に他のいかなる正統な絆も持っていない。そして、彼らの富と地位とはいつでも国家に戻るのである。その際、正当な手続きへの権利という擬制すら必要ではなく、したがって罷免された官僚が属する地方集団や血縁集団に対していかなる権利を創造する必要もない〉

 国家を運営するには記録が必要だ。これに従事する書記(官僚)は識字と計算の力を持つ。国家システムを放置しておくとこの人々に権力が集中してしまう。それを防ぐために設けられたのが去勢制度だ。去勢をすれば、生物学的に子孫を作ることができなくなる。そのため宦官が絶大な権力を持っていても、それが相続されることはない。こうすれば皇帝の権力が官僚によって脅かされることはない。

宦官はなぜ必要だったか

 カトリック教会の聖職者独身制も、社会学的には去勢と同じ機能を持つ。聖職者に子どもがいても、それが公に認められることはない。その結果、聖職者が権力や財産を自分の子どもに継承させることができなくなる。日本でも、鎌倉時代中期まで仏教僧侶は独身制が徹底されていた。それは寺院が絶大な権力を持っていたので、相続ができないようにするためだ。鎌倉時代の民衆仏教が、僧侶の妻帯を認めたのは、仏教教団がかつてのような強大な権力を持たなくなったからである。もっとも去勢というシステムが取られなかった帝国もあった。

〈中国の官僚は「ジェントリー〔郷紳〕」から採用されたし、ヨーロッパの封建階級は軍役の見返りとしての土地分与の原理に世襲原理を重ね合わせることに成功した。エリートの成員が自己を社会的に再生産し、子孫にその地位を確保することを正式に許されている場合、これらのエリートは去勢化と対照的に、胤を残す、、、、〔世襲〕エリートと呼んでよかろう〉(26~27頁)

 現代は公務員、弁護士、医師などの職業は、去勢化されている。それは、難関な資格試験によって選抜されることにより、能力の欠ける子どもがこれらの権力を持つ高度専門職に就いている親の職業を継承できないようにしているからだ。民族は去勢が主流となった社会で発生するのである。

(2021年2月27日脱稿)


「危機の読書」アーカイヴ

佐藤 優(さとう・まさる)
1960年東京都生まれ。作家、元外務省主任分析官。同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省入省。在ソ連日本国大使館でソ連崩壊を目撃。『自壊する帝国』にて大宅賞、新潮ドキュメント賞受賞。『国家の罠』『獄中記』『十五の夏』など。

〈「STORY BOX」2021年4月号掲載〉

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