佐藤 優「危機の読書」〈第12回〉能力主義の罠

危機の読書

今月の一冊
アーネスト・ゲルナー/加藤節監訳『民族とナショナリズム』(岩波書店、2000年)


民族とナショナリズム
転がる石にオーラはつかない。そして流動する人口は、社会成層にいかなるオーラも付着することを許さない。
―『民族とナショナリズム』より

 近代の特徴は能力主義(メリトクラシー)だ。アーネスト・ゲルナーはそれを去勢との比喩で解説した。日本でも能力主義が社会の基調となっている。中高校生は偏差値、大学生は就職活動でのコミュニケーション力、社会人になっても人間力というような「能力」でふるい分けられるという仕組みから逃れることができない。教育社会学者の中村高康氏(東京大学大学院教授)は、能力主義の構造の原因についてこう説明する。

〈社会のなかで「能力」が持つ意味を考察してきたのは主に社会学であるが、その社会学において「能力」の議論には欠かせない用語がある。それが「メリトクラシー(meritocracy)」である。メリトクラシーは、日本では「能力主義」とほとんど同義の言葉として使われてきた〉(中村高康『暴走する能力主義──教育と現代社会の病理』ちくま新書、2018年)。

 中村氏は、能力主義は能力のある者が国家や社会を支配するのが当然であるという意味を含んでいると考える。

〈メリトクラシーにはただ単に能力主義という意味合いがあるだけではなく、能力を持った人間による支配の体制を意味する側面もある。いやむしろ、後者の意味合いのほうがもともとの英語の語義に近いと思われる〉

 去勢化された産業社会は、能力主義に傾きやすい。

 このことをゲルナーは椅子取りゲームにたとえて説明する。

〈永久の椅子取りゲームを運命づけられた社会は、それが所有する様々な椅子のセットの間に位階、カースト、身分などの高い障壁を設けることができない。そうすることは社会的流動性を妨げることになるであろうし、社会的流動性が存在する場合には、耐えがたい緊張状態を引き起こすことになろう。不平等が安定的で、慣習によって神聖化されていれば、人々はひどい不平等も許すことができる。しかし、熱に浮かされたように流動的な社会においては、慣習には何ものをも神聖化するひまがない。転がる石にオーラはつかない〔「転がる石に苔はつかない」という諺のもじり〕。そして流動する人口は、社会成層にいかなるオーラも付着することを許さない。社会成層と不平等とは実際存在するし、時には極端な形で存在する。けれども、それらは性質上弱められ控えめにされている。それらは、富や地位の差別を緩やかに段階化することによって、また社会的距離の欠如と生活様式の収斂とによって、統計的または蓋然的な特性を持つ差異(それは農耕社会に典型的な、強固で絶対化された、裂け目とも言うべき差異とは対照的である)によって、そして社会的流動性の幻想または現実によって和らげられているからである〉(『民族とナショナリズム』)

 江戸時代に、若干の例外があったとしても、武士の子どもは武士、医者の子どもは医者、農民の子どもは農民というように身分と職業が結びついていた。現在も、富裕層の子どもが、幼少時から塾や家庭教師をつけて勉強し、国立や私立の中高一貫の難関校に進学する事例がある。

 しかし、入学試験は、保護者の経済状態と関係なく、平等に受ける。仮に保護者の学校に対する寄付金の額で入学試験の得点にかさ上げがなされるような事態になれば、それは正義に反すると世間から厳しく批判される。

 もっとも実際の入試は附属校からの無試験での進学、推薦入試、総合型選抜(いわゆるAO入試、学力よりも人物を重視する場合が多い)など、平等とは言えない仕組みが組み込まれている。しかし、これらの恣意性が加わる選抜は例外的なものと見なされている。

近代教育と軍隊の相似

 高校入試も大学入試も、一般的な知識を問う内容で、高度に専門的な知識や技能は問われない。これも産業社会の構造と関係しているとゲルナーは考える。

〈産業社会の訓練の主要部分は全般的な訓練であって、それは当人の高度に専門化された職業活動と特に関連しているわけではなく、また専門的な職業活動に先行している。産業社会は、たいていの基準から見て、最高度に専門化された社会であろう。しかし、その教育制度は、かつて存在した中でも、明らかに最も専門化の度合いが少なく、最も普遍的に標準化されている。同一の種類の訓練や教育が、すべてのまたはほとんどの子供や青年に、驚くほど遅い年齢に達するまで施される。専門的な学校教育は、それが先行する長期にわたる非専門教育のある種の仕上げを達成しようとする場合、ようやく教育課程の最後の段階で威信を獲得する。これに対して、若い人々を早期に採用することを意図した専門学校は消極的な威信しか持たない〉

 大学教育でも職業活動に直結する高度に専門化した内容は教育されない。そのような専門教育は、汎用性を持たないので、急速な科学技術の変化に対応することが難しいからだ。

 近代の教育のモデルは軍隊に似ているとのゲルナーの指摘も興味深い。

〈近代的な軍隊は、新兵に対してまず最初に共通の一般教練を課す。その課程を通して、新兵たちは軍隊全体に共通する基礎的な慣用句、儀礼、技能を獲得し身に着けなければならない。やっとその後になって、新兵に一層専門的な教練が施される。きわめて高度な訓練を受けた比較的少数の特殊兵を除いて、適切な教練を受けた新兵はすべて、あまり時間の無駄なく一つの専門からまた別の専門へ再訓練されることが前提され、または期待されている。近代社会は、この点で近代的な軍隊に似ているし、それ以上でさえある〉

 軍隊の教育システムという観点ならば旧日本陸軍の内務班は効率的だった。歴史学者の藤原彰氏は、内務班についてこう記す。

〈第二次世界大戦前の日本陸軍における兵営生活の単位。陸軍では訓練や演習を除き兵営内の日常生活の起居動作のことを内務と称した。平時には軍隊の最小単位は中隊であったが、中隊はさらに兵舎内の兵士の居室ごとに五ないし六の内務班に分かれ、営内居住の下士官を内務班長とし、場合によってはさらに内務班付の下士官をおいた。内務の規則書として作られた『軍隊内務書』によると、内務班長の任務は「兵卒ヲ愛護シ、兵卒間ノ和親ヲハカリ、諸種ノ規定及上官ノ命令意図ヲ班員ニ伝達告示セシメ、且中隊長ノ旨ヲ奉シテ自ラ儀表トナリ班員ヲ指導シ確実ニ内務ヲ実施セシメル」ことであった。しかし実際の内務班生活は、起床から就床まで食事、清掃、洗濯、兵器の手入れなど一分の隙もないきびしい規則と慣行が強制され、兵士にとって盲目的服従が慣性となるまでに訓練する場所であった。内務班内において古年次兵が初年兵を私的制裁によって苦しめることも一般的であった。このため軍隊家庭主義がとなえられ、軍隊内の上下関係は親子関係、兵士相互間の関係は兄弟関係であることが強調されたり、私的制裁の禁止がくり返し通達されたりしたが、内務生活が兵士とくに初年兵にとって堪えがたい苦痛であることは変わらず、自殺者・脱走者が絶えなかった〉(『国史大辞典』吉川弘文館、ジャパンナレッジ版)

 学校でのいじめも、生徒間の人間関係が内務班のようになるところから生じる。

 職場でも、物理的暴力の行使はないとしても、内務班的な雰囲気が支配している場合が少なからずある。産業社会における基礎教育の場に内務班的文化が適合しているという事実を軽視すべきではない。

官僚機構から職人は育たない

 ゲルナーは近代社会の新人教育の特徴についてこう説明する。

〈近代社会は、新人全員に対してかなり周到な長期間の訓練を施し、一定の共有された資質、すなわち、読み書き、計算能力、基礎的な労働習慣、社会的な技能、基礎的な技術的、社会的技能の熟知といった資質を強く求める。人口の大多数の人々にとって、労働生活に付随する特殊技能は、仕事を通じて、またはあまり長引かない補助的訓練の一部として、基礎的な訓練の上に追加されるのである。ここに想定されているのは、全住民に共通の全般的な訓練を終えた者は誰でも、大した困難もなく、たいていの他の仕事のために再訓練されうるということである。一般的にいえば、必要とされる追加的技能は、かなり迅速に習得しうるいくつかの技術と追加「経験」、そして環境・人員・作業法の熟知から成っている。これを修得するには少し時間がかかるかもしれないし、その手間が多少とも保護的な奥義によって増強される場合もあるが、それでも大したことになることはめったにない。確かに、少数の真の専門家も存在する。その地位を有効に占めることができるかどうかは、大変長期の追加的な訓練に左右されるため、特別な教育的経歴と才能とを分かち持っていない人々と彼らを取り替えることは容易にはできないし、あるいはそうすることはまったくできないのである〉

 企業や官庁が求める人材は、総合職、一般職という区別がなされていても、基本的にどのような業務にでも対応できる人事だ。

 これに対して、中世の職人のような高度に専門化した知識を持つ人を育てることは企業も官庁も苦手だ。

 筆者が勤めていた外務省で、外交官は総合職と専門職に分かれていた。専門職は、語学や地域の高度な専門家であるという建前になっていたが、外国語研修を除いて、専門職に高度な専門的知識を得る機会はほとんどなかった。外務省の職務内容が、専門職であっても総合職と同じ内容だからだ。

 ただし、総合職の場合は、成績が悪くても本省の課長、在外公館では大使になるが、専門職の場合は、大使になるのは同期で2~3人、本省の課長になるのは4~5年に1人に過ぎなかった。筆者の場合、民族問題や宗教について、モスクワの日本大使館に勤務している時期にかなり高度の専門知識を身につけることができた。それは、筆者がロシア科学アカデミーの研究所に通ったり、モスクワ国立大学哲学部で神学を教えたりと、自発的にさまざまな活動を行ったからに過ぎない。官僚機構から職人は育ちにくい。

 専門家の不在は、コロナ禍のような非常時に陥ったとき国家の危機として顕在化する。

(2021年3月30日脱稿)


「危機の読書」アーカイヴ

佐藤 優(さとう・まさる)
1960年東京都生まれ。作家、元外務省主任分析官。同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省入省。在ソ連日本国大使館でソ連崩壊を目撃。『自壊する帝国』にて大宅賞、新潮ドキュメント賞受賞。『国家の罠』『獄中記』『十五の夏』など。

〈「STORY BOX」2021年5月号掲載〉

◎編集者コラム◎ 『くさまくら 万葉集歌解き譚』篠 綾子
◎編集者コラム◎ 『消された信仰 「最後のかくれキリシタン」──長崎・生月島の人々』広野真嗣