佐藤 優「危機の読書」〈第15回〉教養としてのインテリジェンス小説

危機の読書

今月の一冊
手嶋龍一『鳴かずのカッコウ』(小学館、2021年)①


自分が何者であるか、公にできない職業。その代償として報酬が上乗せされているのだ
——『鳴かずのカッコウ』より

 本書は二重の意味での教養小説だ。

 第一は、主人公の梶壮太がさまざまな経験を経て一級の公安調査官に成長していく物語だ。この点に関しては、ゲーテ『若きウェルテルの悩み』(1774年)の流れを継承する教養小説(Bildungsroman、自己形成小説)だ。軽い気持ちで公安調査庁に就職した梶は、最終的に意外な選択をすることになる。

 第二は、日本では興味本位で語られることが多く、実態がよく知られていない公安調査庁という役所の特徴とその重要な機能について国民に伝える啓蒙小説としての役割だ。『鳴かずのカッコウ』は、荒唐無稽な冒険譚によって構成されるスパイ小説とは異なり、インテリジェンスの現状を極力反映させた(もちろん小説なのでそこには創作も含まれる)作品である。

 外交ジャーナリストの手嶋龍一氏は、日本であれ外国であれ政府機関に勤務したことはない。ただし、NHKの記者として、国際政治とインテリジェンスの現場を目撃している。

 手嶋氏には、凡庸な記者と異なり、目に見える事柄の背後に動く隠れた力を読み解く才能がある。その才能は、NHK記者時代のノンフィクション『たそがれゆく日米同盟──ニッポンFSXを撃て』『一九九一年日本の敗北』(共に新潮文庫)で見事に発揮されている。

 NHKを退職した後に手嶋氏は小説も書くようになった。現象の背後にある隠れた力を見抜く眼力は小説家としてのデビュー作『ウルトラ・ダラー』と次作『スギハラ・サバイバル』(共に小学館文庫)で見事に開花した。

 ところで、日本では学術面でのインテリジェンスに関する研究が著しく立ち後れている。アカデミズムにおいてインテリジェンスに関する共通の定義すら存在しないというのが実態だ。

 小林良樹氏(明治大学特任教授)は、高知県警本部長、内閣情報調査室の内閣情報分析官をつとめたインテリジェンス実務の第一人者である。小林氏は、日本においてインテリジェンスに関する通説的定義がない理由についてこう説明する。

〈日本においても、現時点では、インテリジェンスの定義に関する学術理論上の通説は十分には確立していないと考えられます。この背景事情として、第1に、日本においては、第二次大戦以後のインテリジェンス活動は欧米先進諸国に比較して小規模にとどまっていること(第6章2)、第2に、(その結果として)インテリジェンスに関する学術理論研究も十分には進展していないこと、などが考えられます。すなわち、「インテリジェンスの定義に関する通説がない」という状況自体が日本の政治・社会状況の反映であり、インテリジェンス文化の特徴の一つであるとも考えられます。そうした状況の中で、主な見解の例は次のとおりです。/外交官の北岡元は、「インテリジェンスとは、国家安全保障にとって重要な、ある種のインフォメーションから、要求・収集・分析というプロセスを経て生産され、政策立案者に提供されるプロダクトである」としています。こうした見解は、インテリジェンスの政策決定支援機能を重視する米国における立場に近いものです。/元内閣情報調査室長の大森義夫は、インテリジェンスの定義として「敵対勢力あるいはライバルについての秘密情報」や「対象側が隠している本音や実態すなわち機密を当方のニーズに合わせて探り出す合目的的な活動」と論じています。こうした立場は、インテリジェンスの機能を秘密情報の収集に限定する傾向が強いイギリスにおける立場に近いものです。/研究者の山本武利は、戦前の陸軍中野学校を始め戦前・戦中の日本軍のいわゆる「特務機関」の活動、すなわち秘密工作活動に関する研究成果を多く発表しています。この前提として、政策決定支援機能よりも秘密性をインテリジェンスの定義の中心に据えていると考えられます。一般に、歴史研究及びこれに近い研究分野においてはこうした傾向が強いとみられます〉(小林良樹『なぜ、インテリジェンスは必要なのか』慶應義塾大学出版会)

 インテリジェンスにおいては、秘密情報だけでなく公開情報の分析も大きなウエイトを占めている。また、インテリジェンスと政策を分離するといっても、それは建前に過ぎない。なぜなら政策決定者に報告する情報の内容によって、政策は事実上、決定されてしまうことが多いからだ。

 インテリジェンスは文化拘束性が高いので、外国インテリジェンス機関の機構や理論をそのまま日本に移植することは不可能だ。日本独自の対外インテリジェンス機関を育成するとともに、日本の状況に合致したインテリジェンス理論を構築する以外の道はないのであろう。

 この点、公安調査庁について研究することにはとても重要な意義がある。公安調査庁は、戦後、GHQ(連合国軍総司令部)と緊密な関係を持って誕生した役所だ。その意味では、アメリカ的なインテリジェンス文化がある。

 また創設期の公安調査庁では、旧陸軍参謀本部の情報将校や陸軍中野学校出身者も活躍した。その意味で旧日本陸軍のインテリジェンスの良質な部分を継承している。さらに協力者を通じて対象が秘匿する情報を入手するヒュミントに公安調査庁は長じている。この点はイギリス的だ。

日本共産党とオウム真理教

 公安調査庁の歴史を簡潔に振り返っておこう。

 1946年8月7日に内務省調査局が起源になる。48年1月1日に内事局第二局、同年2月15日に法務庁特別審査局、49年6月1日に法務府特別審査局に改組された。そして、52年7月21日、破壊活動防止法の施行に伴い設置されたのが公安調査庁だ。

〈破壊活動防止法は、内乱や政治目的を達成するための騒乱、殺人など、平穏な市民生活にとって重大な脅威となる暴力主義的破壊活動を行った団体に対し、必要な規制措置を定めるとともに、こうした暴力主義的破壊活動に関する刑罰規定を補整することにより、我が国の公共の安全の確保に寄与することを目的としています。/同法は、暴力主義的破壊活動を行った団体について、将来更にこれを行う明らかなおそれがあるなどの要件を満たす場合には、その団体の活動を制限又は解散の指定の処分を行うことを定めています。さらに、こうした暴力主義的破壊活動に該当する行為のうち、刑法その他の刑罰法規では処罰し得ないか、軽い処罰しかできないものについて、適正な処罰をなし得るように規定しています〉(公安調査庁HP)

 具体的には、日本共産党が破壊活動防止法の調査対象になっている。情報の力で国民を守ることが公安調査庁の任務である。もっとも日本国家と日本国民に脅威となる対象は、時代と共に変化する。それに対応して、公安調査庁の対応業務も変化してきた。

「オウム真理教」による無差別大量殺人事件のような事件の再発を防止するために1999年12月27日には、無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律が施行された。こういう団体の規制に関する調査、処分の請求及び規制措置に関する事務も公安調査庁が担当している。

〈公安調査庁は、過去に暴力主義的破壊活動を行った団体等に対する規制処分を視野に入れた調査を進めるとともに、収集・分析した情報を関係機関へ提供して政府の施策推進に貢献することで、〝縁の下の力持ち〟として、我が国の民主主義体制擁護の一翼を担ってきました〉(公安調査庁HP)

 公安調査庁が存在することが、日本共産党、過激派、大量殺人を行う可能性のあるカルト、日本に敵対する外国政府機関、国際テロ組織などの脅威に対する抑止力として機能している。

インテリジェンスの「見える化」

『鳴かずのカッコウ』は、縁の下の力持ちとして、インテリジェンスによる抑止という目立たないが重要な任務を担う公安調査官の姿を小説という形態で「見える化」した稀有な作品だ。

 主人公の梶壮太は、高い志を持って公安調査庁に就職したのではない。関西の国立大学法学部出身で、専攻は国際政治だが、インテリジェンスに関心を持っていたわけではない。大学時代のサークルは漫画研究会に属していた。公安調査庁を志望したのも、公務員だから安定しているだろうという消極的な理由からだ。

〈初めから上級職は望まず、地元採用枠のある一般職に狙いを絞った。期せずして迷いこんだのが公安調査庁だった。

 この役所のことは就活を始めるまで名前も知らなかった。官公庁合同の説明会でたまたまブースに立ち寄ったところ、手持ち無沙汰の担当者と一対一の面談になってしまった。

「君、酒のめる?」

「はあ、まあ」

「いける口? ビール何本? 日本酒何合?」

 いきなり型破りな質問が飛んできて困惑した。その一方で、給料は悪くないなと感じた。公安職は一般の行政職より初任給で二万五千円近くも多く、率にして十二%も高い。公安調査官は国民の生命安全を守る仕事だからだろうと勝手に解釈した。その後の試験は難なくクリアした。

「公安職として採用する」

 そう通知を受け取ったものの、公安調査官が果たしてどんな仕事なのか、具体的な活動内容が分からない。さすがの壮太も不安になり、採用パンフレットをもう一度、隅々まで読み返してみた。末尾の「Q&A」にこんなくだりがあった。うかつにも読み落としていたのだ。

「仕事の性質上、公安調査庁のことを好ましく思っていない勢力が存在するのは事実ですので、自らの勤務先や仕事の内容をあまり積極的にオープンにしないようにしている職員もいます」

 身分を明かすか否かは、各人の自由な意思に委ねている。そんな書きぶりだが、身の安全を鑑みて身分は明かすべきでない──組織は狡猾にもそう示唆していたのである。自分が何者であるか、公にできない職業。その代償として報酬が上乗せされているのだ〉(『鳴かずのカッコウ』)

 梶は自分の正体を秘匿しなくてはならない世界の一員となったのだ。

(2021年6月28日脱稿)


「危機の読書」アーカイヴ

佐藤 優(さとう・まさる)
1960年東京都生まれ。作家、元外務省主任分析官。同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省入省。在ソ連日本国大使館でソ連崩壊を目撃。『自壊する帝国』にて大宅賞、新潮ドキュメント賞受賞。『国家の罠』『獄中記』『十五の夏』など。

〈「STORY BOX」2021年8月号掲載〉

あの作家の好きな漫画 第2回 早見和真さん
◎編集者コラム◎ 『置き去りのふたり』砂川雨路