佐藤 優「危機の読書」〈第16回〉ヒュミントと記憶術

危機の読書

今月の一冊
手嶋龍一『鳴かずのカッコウ』(小学館、2021年)②


公安調査官はみな、いわゆる「薄皮一枚」を身にまとっている
——『鳴かずのカッコウ』より

 インテリジェンスにはさまざまな技法がある。その中でも王道とされるのが人間によって情報を入手するヒュミント(Humint:ヒューミントと表記することもある)だ。ヒュミントとはHuman Intelligenceの略だ。インテリジェンス理論の第一人者である小林良樹氏(明治大学公共政策大学院特任教授、元内閣情報分析官)は、ヒュミントについてこう解説する。

〈ヒューミントとは、人的情報源(Human Source)から収集される情報に基づくインテリジェンスのことです。(中略)ヒューミントの一般的な例としては、「秘密の人的情報源を通じた非公開の情報の収集」(いわゆるスパイ活動)があります。相手国の政府関係者を通じて当該政府の外交・軍事上の秘密情報の提供を秘密裡に受けるような場合です。中国の春秋時代末期(紀元前5世紀頃)に孫武によって記された兵学書とされる『孫子』にも「用間篇」という章があり、こうした活動の重要性が説かれています。/ただし、ヒューミントはいわゆるスパイ活動よりも広い概念です。すなわち、「ヒューミント=スパイ」という理解は正しくありません。人的情報源を通じた情報収集である限り、情報源の性質、情報の内容、収集の手法等に特段の秘匿性が無い場合でも、ヒューミントに含まれます。/いわゆるスパイ活動とは異なる形態のヒューミントの例としては、研究者・有識者その他の一般人からの聞き取り、在外公館に勤務する外交官等による現地関係者等からの聞き取り、同盟国、友好国等のインテリジェンス機関との公式な渉外(リエゾン)関係を通じた情報収集、被疑者に対する取調べを通じた情報収集等があります〉(小林良樹『なぜ、インテリジェンスは必要なのか』慶應義塾大学出版会、2021年)。

 ここで重要なのは、小林氏が「ヒュミント=スパイ」は正しくないと指摘していることだ。スパイ活動は違法な手段を通じて秘密情報を入手することだ。しかし、秘密情報でなくても、新聞、書籍、雑誌などを読むだけでは正しく理解できない事柄も多々ある。そのときには専門家に話を聞くのがいちばん早い。公安調査官は、研究者、有識者、ジャーナリスト、政治家、公務員とさまざまな機会に意見交換を行っているが、これがヒュミント活動の核になる。

『鳴かずのカッコウ』は小説なので、公安調査官の活動をそのまま描いているわけではない。創作や脚色も当然ある。しかし、まったくあり得ない話を書いているわけではない。ここで興味深いのはヒュミントの失敗例だ。主人公の梶壮太は、国家公務員一般職員試験で合格したいわゆるノンキャリアの公安調査官だ。大学では漫画研究会に所属し、押し出しの強いタイプではない。

 実を言うと押し出しがあまり強くない人はヒュミントの現場に向いている。他人の注目を過度に集めることがないからだ。

〈壮太は中学二年の時、インターネットで「フォトグラフィックメモリー」という言葉を見つけた。映像記憶と呼ばれる特異な能力をいい、三島由紀夫やウォーレン・バフェットもそんな記憶力の持ち主だったらしい。/幼少期には誰もが持っているのだが、通常、思春期までには失われてしまうという。洞窟で暮らしていた太古の人類はみな周辺の光景を画像として記憶に刻んでいた。だが、複雑な言語を操るようになるにつれ、原初の能力は次第に失われていった。/壮太はいまでも少し集中力を高めれば、文字も映像もたやすく記憶することができる。便利なようだが、本人はさして嬉しくもない。困ったことに、この能力はメモリー消去が不得手なのだ。嫌な記憶まで残像となって居座ってしまう。だから、壮太はできるだけぼんやりとあたりを眺めることにしている。映像情報をあまり多く抱え込まないよう、自己防衛本能が無意識に働くのだろう。そのせいか「なにボケーッとしとんねん」と言われることも多いが、仕方がないとあきらめている〉(手嶋龍一『鳴かずのカッコウ』小学館、2021年)。

酒席の会話も再現

 筆者も他の人と比較すると少しだけ記憶力がいい。その基本は映像記憶だ。このことに気付いたのは、1988年にモスクワの日本大使館政務班に勤務して半年くらい経ったときのことだ。

 ソ連時代、ロシア人は外国人と会うことを警戒していた。筆者が勤務し始めた頃は、ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長によるペレストロイカが進められていたが、ロシア人と非公式な会食をするとき、メモをとることはできなかった。メモをとっていることがわかると相手が口を噤んでしまうか、「プラウダ」(ソ連共産党中央委員会機関紙)か「イズベスチヤ」(官報)の記事と同じことしか話さなくなる。研修上がりの三等理事官(書記官より下の外交官)だった筆者は、大使館幹部の会食に同席し、会食終了後、大使館に戻って報告公電(公務で用いる電報)の草案を作るのが仕事だった。機微に触れる話は酩酊したときに出やすい。

 ウオトカをショットグラスで十数杯飲んだ後だと、上司は記憶が飛んでいる場合がほとんどだ。同席している若手外交官も会話の内容をほとんど再現できないのが通例だった。しかし、筆者の場合、こういう記録作成に難を感じたことはなかった。食事をしながら話をしている情景が記憶に焼き付いているからだ。

 記憶を集中すると、静止画像が動き始めると同時に会話が始まる。その話をメモにしていけばいいので、記録作成は難しくはなかった。勤務3年目からは独り立ちして自分で情報を集めてくるようになったが、そのときも記憶力がよいことに助けられた。

 1995年に外務本省に戻ってからはモサド(イスラエル諜報特務庁)とSVR(ロシア対外諜報庁)とのリエゾンを担当した。その関係で、イスラエルやロシアのインテリジェンス・オフィサーたちとも親しく付き合ったが、筆者と同レベルの記憶力を持っている人が数人いた。その人たちに聞いてみると、いずれも映像記憶に頼っているとのことだった。梶壮太が映像記憶に長けていることが、公安調査官の仕事に極めて有利に働いている。

 ちなみに映像記憶は、訓練によりかなり鍛えることができる。カミール・グーリーイェヴ/デニス・ブーキン(岡本麻左子訳)『KGBスパイ式記憶術』(水王舎、2019年)を教科書にして3カ月くらい訓練すると記憶力が確実に向上する。主要国のインテリジェンス機関では、記憶術も訓練科目に加えている場合が多い。

 ヒュミントにおいて、公安調査官は、警察官と比較して、有利な点と不利な点がある。この点について、手嶋氏はわかりやすく説明している。警察官は警察手帳を見せれば、大抵の場合、相手は話に応じてくれる。しかし、公安調査官の場合は、そうならない。

〈初対面の相手に堂々と身分を名乗れず、所属する組織名を記した名刺も切れない──。公安調査官となって何より戸惑ったのはこのことだった。/警備・公安の警察官なら、警察手帳を示して話を聞く。だが、公安調査官は正体を明かさない。時に大学の研究者や民間会社の調査員を装い、アポイントメントを取りつけて話を聞きにいく。/情報源と接触するに当たって、どのように身分を偽装するか。公安調査官のヒューミント、対人諜報活動の成否はこの一点にかかっている。偽装が巧みなら、相手を自然とリラックスさせ、思うさま貴重な話を引き出すことができる。/その一方で偽装が露呈する危険は常につきまとっている。情報源が後日電話をかけてきたとしよう。/「おかけになった電話番号は現在使われておりません──」/そんな応答メッセージが流れようものなら、名刺の会社は架空で、住所も偽りだとばれてしまう。相手は騙されたと気づき、もう二度と会ってはくれない。効果的なカバー、見破られない身分偽装こそ、公安インテリジェンスの核心なのだ。神戸のような街では、三宮駅の周辺で情報源にばったり遭遇しないとも限らない。我が身を偽る。それは、高層のビルとビルに渡した綱を渡るようなリスクを伴う。/梶壮太は、両親を除いて、祖母にも親しい友にも公安調査官になったことを話していない。広島に赴任した同期は、公安調査庁に就職が決まったと明かすと、地元に住む祖父母の表情がこわばり、「おまえ、特高じゃの、中野学校じゃの、よう知らんが、そがぁな秘密組織入ってどうするんなら。やめとけ」と諌められたという。/公安調査官はみな、いわゆる「薄皮一枚」を身にまとっている。職業を聞かれると、壮太は「いや、しがない役所勤めです」とやりすごす。嘘ではないが、真実も明かさない。虚実ないまぜにして凌いできた〉(前掲書)。

筆者の場合

 筆者の場合、モスクワで何となくしていたことが結果として身分偽装になった。1つはソ連科学アカデミー民族学研究所(現ロシア科学アカデミー民族学人類学研究所)の特別研究生として大学院に在学したことだ。

 ロシア人のインテリ達の間では、筆者は外交官としてよりも、民族問題に関心を持つ研究者として受け入れられた。その結果、他の外交官が閲覧できないような100〜150部しか作成されていない部内使用の民族問題に関する機微に触れた情報を扱った資料を入手することができた。ここでアカデミズムでの人脈を確立することができた。それがソ連崩壊後、モスクワ国立大学哲学部の客員講師をつとめることにつながっていく。モスクワ国立大学では、現代プロテスタント神学を教えた。筆者はモスクワ国立大学客員講師(神学修士)という名刺を作った。この名刺に嘘は記されていない。この名刺を持っていると学者ということで、通常は大使しか会えないようなクレムリン(大統領府)の高官と会えるようになった。

 ところで、日本のように法や制度が厳格で、情報部員に特別な権限が与えられていない国では、偽装工作のハードルは極めて高い。物語では梶壮太はさまざまな身分をまとい、核心的な情報を得ていく。

 法を乗り越えない範囲での偽装には、クリエイティブな発想が求められる局面も多い。これは、小説の中だけの話ではない。

(2021年7月26日脱稿)


「危機の読書」アーカイヴ

佐藤 優(さとう・まさる)
1960年東京都生まれ。作家、元外務省主任分析官。同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省入省。在ソ連日本国大使館でソ連崩壊を目撃。『自壊する帝国』にて大宅賞、新潮ドキュメント賞受賞。『国家の罠』『獄中記』『十五の夏』など。

〈「STORY BOX」2021年9月号掲載〉

◎編集者コラム◎ 『ムショぼけ』沖田臥竜
下村敦史『アルテミスの涙』