佐藤 優「危機の読書」〈第17回〉偽装のシグナル

危機の読書

今月の一冊
手嶋龍一『鳴かずのカッコウ』(小学館、2021年)


研修所で習ったヒューミントの真髄とはこういうことなのだろう。現場調査の面白さにハマリそうだ
——『鳴かずのカッコウ』より

 ヒュミント(人によるインテリジェンス活動)において重要なのは偽装だ。当方の意図について察知されずに重要な情報を入手する場合、偽装が不可欠になる。例えば、外交官に対して機微に触れる話をすることを嫌がる人がいる。外交官は話を聞いたらそれを公電(外務省が公務で用いる電報)にして、本国に報告するからだ。

 公電には暗号をかける。もっとも暗号が絶対に破られないという保証はない。また、外務省から自分の話した内容が漏洩しないという保証もない。だから事情に通じた有識者は外交官との接触には慎重になる。あるいは会話する場合も秘密に触れないように注意する。それでも外交官の方が、ジャーナリストよりは情報収集をしやすい。

 ジャーナリストは書くことが仕事だ。ジャーナリストの取材を受けるときは公表されることが前提となるので、重要な秘密については話さないのが普通だ。もっともインテリジェンス関係者が、あえて国家機密をジャーナリストに漏洩することもある。そうすることで特定の政策を失敗させたり、政治家を失脚させることを目的とする場合だ。これは情報漏洩というよりも政治的意図を持った謀略だ。

 モスクワに勤務していた時代だが、筆者も意図せずに偽装をしていた。いずれも筆者の知的好奇心から生じたことだ。

 第一は1990年からソ連科学アカデミー民族学研究所(現在のロシア科学アカデミー民族学人類学研究所)の大学院に在籍していたことだ。ロシアの大学院には「ソイスカーチェリ」(論文提出有資格者)という制度がある。ロシアの大学は5年制、大学院は3年制で、大学院で必要単位を取得すると博士候補論文を提出することが認められる。

 ちなみにロシアの博士候補学位は、欧米のPh.D(博士)に相当する。ロシアでの博士号は、博士候補学位取得後、大学や研究所での研究を10年以上続けてから取得する資格だ。欧米の大学の博士論文よりも遥かにレベルが高い。

 筆者は「ソイスカーチェリ」の認定を受けたので、研究所の図書はもとより部内使用の資料を見ることができた。民族問題や政治意識に関する興味深い資料が多数あり、これらの文書を読み込むことで筆者のソ連内政に対する理解は飛躍的に深まった。

防諜機関とのゲーム

 第二の偽装は、ソ連崩壊後、モスクワ国立大学宗教史宗教哲学科で1992年から95年までプロテスタント神学を教えたことだ。筆者の基礎教育が神学なので、知識を更新するために行ったいわば趣味であったが、これが仕事に役立った。

 当時、筆者は大使館の二等書記官だったが、この肩書きでは閣僚や大統領府幹部と会うことはできない。しかし、モスクワ国立大学哲学部客員講師という肩書きだと、経済大臣、第1副首相、国家院(下院)第1副議長、大統領府副長官、大統領補佐官などと容易に会うことができた。

 ロシアでは知識人のステータスが高い。特に政治学は、哲学の一分野とされていたために哲学部の講師とならば政治家は喜んで会ってくれる。

 ロシアの防諜機関からは「佐藤さん、学者を偽装して情報収集やロビー活動をすることはいいかげんよした方がいい。外交官としての活動の限界を超えている」と警告されたこともある。こういう警告を無視すると尾行が強まり、状況によっては車を壊されたり、家屋に侵入され、家財を壊されたりする。それでもシグナルを無視すると殴られる(筆者も一度だけ殴られたことがある)。

 警告を受けてびびりあがって情報収集やロビー活動を止めると「その程度の奴か」と防諜機関に嘗められる。警告があったら1カ月くらい、活動を抑制し、その後、以前同様に動き出すというのが筆者の経験則では上手な対処法だ。防諜機関も「こいつはシグナルを出せば反応する」と受け止め、ゲームができるようになる。

 さて『鳴かずのカッコウ』の主人公梶壮太は、駆け出しの頃に北朝鮮からの産地偽装松茸を調査するために潜入工作をするが、思いがけないミスで失敗してしまう。このエピソードがとても興味深い。

〈九月半ば、壮太は仲卸の作業員となり、初めて調査の一線に出た。税関職員の知人に紹介してもらい、神戸市中央卸売市場で輸入の青果物を専ら扱う会社に潜り込んだ。/「まずは仕事の流れを覚えてもらわんとな。現場をひとわたり回ってみい」/こうして一週間後には、目指す中国産野菜を扱う部門にたどり着いた。貨物船から荷物が降ろされて保税倉庫に収められ、通関業務を終えて、仲卸業者に渡るまでの過程をひと通り呑み込めた。「中華人民共和国吉林省延辺朝鮮族自治州」と刻印された松茸の箱を収めた貯蔵庫を探し当てたのは九日目だった。/輸入松茸のなかでも上ものを捌いているのは、大阪の仲卸業者だった。壮太は配送伝票から「まると青果(株)」の名前を割り出した〉(『鳴かずのカッコウ』)。

「まると青果」にも何とか潜り込むことができた。配送部門のアルバイトだ。

〈時給は千三百八十円と良かったが、臨時雇いにしては履歴書に詳しい記述を求められた。あらかじめ役所(引用者註*公安調査庁)の担当者から指示されていた住所、氏名、電話を書き込んだ〉(同)。

 壮太のアプローチはかなり危険だ。なぜなら公安調査官は国家公務員なので副業が禁止されている。カネを貰うと国家公務員倫理法に基づいて届け出なくてはならない。

 届け出ると工作が露見する。届け出ないと違法行為を犯したことになる。国家公務員として違法行為を伴うような工作は絶対に行ってはならない。リスクが高すぎる。

 もっとも公安調査官が民間人を雇ってこのような工作を行うならば、そこに兼業禁止や国家公務員倫理法の届け出などの面倒な問題は出てこない。

「まると青果」は、吉林省産の松茸を、京都丹波篠山産の高級松茸に偽装して販売している事実をつかんだ。上司に相談するとこんなことを言われた。

〈不安になった壮太は、尾行がついていないか、背後に気を配りながら、法務総合庁舎に出向いて柏倉に相談を持ちかけてみた。/「そりゃ、不正競争防止法に明らかに違反しとるな。その幇助、もしかすると主犯や。しかも報酬までもろとるからな。まあ、手が後ろに回るやろな。けどな、梶。そんなカラクリに一切気づいていなければ、お前は善意の第三者や。ええか、お前はボケッと現場監督に言われたまま包装の作業をしとる、それでいけ」〉(同)

 柏倉の理屈は一応通っているが、警察に摘発された場合、こんな言い訳が通用するはずがない。

 壮太の潜入工作は、些細なミスがきっかけで露見してしまう。

〈杉の香が匂い立つ木箱に松茸をおさめていく。それが壮太の仕事だった。丹波篠山産の三に対して吉林省産を一の割合で混ぜて、体裁を整える。高級セロファン紙で丁寧にくるんで、出荷用の段ボールに入れていく。生来の真面目な性格に加えて、手先が器用なことから、たちまち指導員に気に入られてしまった。/(中略)「心配すな。俺らがしとることなんかはなあ、中国の連中がやっとることに比べたら、可愛いもんやで。中国人言うてもな、吉林省延吉市場の仲買人はみな朝鮮族や。国境を越えて北朝鮮の咸鏡北道に行って、松茸を二束三文で買いつけてきよる。それを持ち帰って、『中国産』と書いた証明書類をつけて日本へ輸出しよるんや。ご丁寧に『北朝鮮産は混入させない』と書いた誓約書まで付けてな」/そんな危うい話は聞いていないことにしたほうがいい。そうは分かっているのだが、あまりに面白い話で、壮太はつい手を止めてしまった。研修所で習ったヒューミントの真髄とはこういうことなのだろう。現場調査の面白さにハマリそうだ。〉(同)

潜入捜査は違法

 それからしばらくして、「まると青果」に天満署からの家宅捜索がなされた。

〈同時に警備・公安筋から、壮太の行為は商品偽装の幇助にあたり、直ちに手を引くよう本庁を通じて厳重に申し渡された。それにしてもなぜ、警備・公安の連中に潜入を知られてしまったのか。/いま振り返ってみると、曲者はサワラの葉を敷き詰めていた色白の茶髪男だった。指導員が席を外した隙に、「俺の腕も随分あがったやろ」と言って、作業済みの箱をスマホで撮影していた。一瞬油断した隙に顔写真を撮られてしまった可能性がある。確証はないものの、どうやらここから面が割れたのではないか──。もしかしたら、寮に帰る際にも尾行されていたかもしれない。/だとすれば、この色白の茶髪は、警備・公安が送り込んだ内偵者だったに違いない。おそらく若手の捜査官だろう。彼らは不正競争防止法違反の商品偽装などには全く興味がない。狙いは、北朝鮮産松茸の密輸ルートに北の協力者の影が落ちているかどうか。その一点に焦点を絞って「まると青果」に潜入していたのだろう。/だが、これといった情報は掴めなかったに違いない。そのうえ、新米の公安調査官があろうことか自分たちのシマに闖入してきたため、食品偽装を取り締まる生活安全課に通報して摘発させることにした〉(同)

 この文章は、必ずしも実態に即していない。

 公安調査庁にせよ警察庁にせよ、違法な潜入調査はできない。特に潜入捜査で偽装した仕事でカネを受け取ると厄介なことになる。このようなリスクを避けるためには、警察官や公安調査官のOB、OGが経営する探偵会社や調査会社を使えばよい。民間のクッションを1つ挟めば安全に潜入工作活動ができる。

『鳴かずのカッコウ』は小説なので、事実のような創作と創作のような事実が混在している。ただし、日本では、国内機関のインテリジェンスオフィサーに何の権限も付与されず、法律を守らなければならないのは紛れもない事実だ。

 近隣国との情報戦が展開される昨今、国内での諜報活動こそ難点というのは皮肉である。壮太の偽装工作は奇しくも日本の危機を浮かび上がらせている。

(2021年8月25日脱稿)


「危機の読書」アーカイヴ

佐藤 優(さとう・まさる)
1960年東京都生まれ。作家、元外務省主任分析官。同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省入省。在ソ連日本国大使館でソ連崩壊を目撃。『自壊する帝国』にて大宅賞、新潮ドキュメント賞受賞。『国家の罠』『獄中記』『十五の夏』など。

〈「STORY BOX」2021年10月号掲載〉

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