佐藤 優「危機の読書」〈第18回〉国際基準の重偽装

危機の読書

今月の一冊
手嶋龍一『鳴かずのカッコウ』(小学館、2021年)


お前、松江の古美術商というカバーを被って、
この仕事を続けてみいひんか
——『鳴かずのカッコウ』より

 神戸公安調査局の公安調査官・梶壮太は、偽装能力や浸透工作も巧みになり、重要な鉱脈を掘り当てる。アメリカと中国の工作員が日本を舞台にコレクティヴ・インテリジェンス(協力諜報)を行っている事実だ。日本政府に知らせずに同盟国のアメリカがこのような工作を行っているのは大問題だ。しかし、この件は闇から闇に葬り去られることになった。

〈かくして、内閣合同情報会議は、本件に関して、神戸公安調査事務所に厳格な機密保持を命じてきた。壮太の報告書には永久の封印が施された。関連の調査資料も一つ残らず本庁に送るよう厳命が下された。当然、梶壮太には一切の褒賞を授与しないことが決まった。以後、米中の接触の現場にも近づいてはならない、と矢継ぎ早の訓令が神戸公安調査事務所に届いたのだった。柏倉チームは直ちに解散を命じられた。MiSSロレンスには、在英国日本大使館へ辞令が下り、外務省へ移籍の上、外交官の身分が付与された。英国陸軍の語学学校でアラビア語課程を専修すべし。上層部の意向で来月早々にはロンドンに発つよう指示があった。一方、壮太には、広島にある中国公安調査局管内の松江事務所への異動が発令された〉(『鳴かずのカッコウ』)。

 あまりにもまずい真実を知ってしまった場合、「なかったこと」にされてしまうことはよくある。筆者は1991年3月にソ連共産党中央委員会員から「共産党中枢部にクーデター計画がある。ヤナーエフ副大統領、シェイニン政治局員が中心だ。ゴルバチョフ政権が継続するかどうかはわからない」という情報を得た。情報源はヤナーエフと個人的に親しい人で、筆者とも人間的信頼関係が構築されていたので、筆者はこの話の内容を公電(外務省が公務で用いる電報)にまとめた。しかし、この公電は大使館上層部によって握りつぶされた。

 公使に呼び出され「今、東京の外務本省では、4月のゴルバチョフ訪日に向けて一丸になって頑張っている。それに水を差すような情報を送ると君の立場が悪くなる」という話だった。このクーデター計画の情報は事実で、三日天下で終わったもののその年の8月に決行された。

 上司に貴重な情報を握りつぶされる経験を何回かすると、こちらも知恵がついてくる。1992年9月にエリツィン大統領が訪日をドタキャンした。その一週間後に、ブルブリス国務長官(訪日準備委員長)とロシアのマスメディア幹部とのオフレコ懇談の記録を入手した。そこには1956年日ソ共同宣言を基礎に歯舞群島と色丹島の2島返還をロシアが極秘裏に日本に打診したが、渡辺美智雄外相が拒否し、強行に4島返還を要求したので、エリツィンは日本との妥協点を見いだせずに訪日延期を余儀なくされたと記されていた。筆者は、この記録の内容は真実と思ったが、そのまま公電にすると幹部に握り潰されるのが確実なので、「ロシア側が以下のような情報操作を行っているので、念のために報告する」と書いて公電にした。この公電は無事発電された。後に本省幹部から「君はロシア側の情報操作と書いていたけれど、あれはエリツィンの本音だね」と言われた。その人は、コズィレフ外相が渡辺外相に秘密提案を行ったことを知っていたので、そのような反応をしたのだ。インテリジェンス・オフィサーは真実を知ってもそれを報告すると自分の身にどのような災難が降りかかってくるかを常に意識していなくてはならない。

壮太の第二章

 米中インテリジェンス協力をつかんだことで、壮太の運命は変わった。

〈「どうやら今回のオペレーションでひどいドジを踏んだらしい。それで松江に左遷されるんじゃないか」

 神戸公安調査事務所内の同僚たちはそう囁きあった。高橋とMissロレンスは真相を知っているが、口をつぐんでいる。誰もが壮太を腫れものに触るように扱い、近寄ろうとしない。

「首席、松江への転勤に当たって、永山祥子先生(引用者註*壮太の茶道の先生)に挨拶に伺うことを許してもらえませんか」

 壮太は柏倉にそう願い出た。

「役所のなかでは一切口にするなよ」

 柏倉は暗黙の許可を与えてくれた。

「それともうひとつ、別件でお話があります。じつは私事なのですが、このたび──」

 壮太が言いにくそうに切り出した。

「おう、いよいよ身を固めるのか。よかったやないか」

「いえ、松江の祖母の家に養子に入ることにしました。これで正式に野津姓となります。人事上の手続きも宜しくお願いします。これで、祥子先生には、結果としてですが、身分を偽らずに会えることになり、内心ほっとしています」

 翔太(引用者註*壮太が仕事で用いる偽名の1つ)という名前はどうするんだ──そう口にしかけた時、柏倉の脳裏に雷鳴に打たれたように一つの着想が閃いた。それは天啓ともいうべき妙案だった。

 野津をこのまま古美術商にしてしまおう〉(同)。

 柏倉はこの機会に壮太を忍者の「草」のような潜入工作員に仕立てようと考えたのだ。

〈公安調査官、梶壮太を名簿から抹消し、野津壮太として松江の古美術商に仕立てる。超ジミーの転職としては悪くないはずだ。そのうえで、覆面公安調査官としてロンドンから来た風変わりな秘密情報部員のカウンターパートを務めさせ、米中の密やかな接触を監視する秘密要員とすればいい。公安調査庁にはごく稀なのだが、重偽装を施して地下に潜伏している調査官がいる。役所の極秘名簿からも名前が消され、公安調査庁の司令塔である参事官室だけがその存在を知っているにすぎない。

「インテリジェンスオフィサーは、生涯を通じてインテリジェンスオフィサーなり──この箴言は知っているな。お前、松江の古美術商というカバーを被って、この仕事を続けてみいひんか」

 壮太は、あまりに唐突な話に思わず言葉を失った。

「え、カイシャをやめるんですか」

「まあ、表向きはそうなるな。古美術商の仮面をかぶって、俺の下で仕事をするいうことや」

「しばらく考えさせてもらってもいいでしょうか」

「もちろんや、急ぐことやない」

「それと、あの、決める前にひとつ伺ってもよろしいですか」

「お前の一生のことや。なんでも言うてみい」

「その場合、僕の年金はどうなるんでしょう。そもそも安定志向でこの役所に入ったものですから──」

「男子たるもの、そんなことは心配すな。俺が手を回しておく。松江に赴任した後、じっくり結論を出してもええんやぞ」

 柏倉は、自らの思い付きがすでに実現したかのように晴れ晴れとした表情を見せた〉(同)。

 実際にこのような重偽装を公安調査庁が行っているかどうか、筆者は承知していない。国際基準では、インテリジェンス・オフィサーがこのような重偽装をするのは常識だ。『鳴かずのカッコウ』はインテリジェンス小説なので、真実のような虚構と虚構のような真実が織り交ぜられている。

 この小説の最後の部分で、少し出てくるが、松江で古美術商の重偽装をした壮太は、SIS(英秘密情報部)との接触を続けているようだ。恐らく、手嶋氏は古美術商に偽装した壮太が奇想天外な活躍をする第二作を考えているのであろう。

怪しいビジネスマン

 重偽装をしたインテリジェンス・オフィサーに筆者は何度か気付いたことがある。1993年10月にエリツィン大統領側と旧議会側が対立するモスクワ騒擾事件があった。モスクワ市内で銃撃戦や放火が起きたが、最終的にエリツィンが戦車を出動させ、大砲をホワイトハウス(国会議事堂)に打ち込んだ後、特殊部隊を投入してハズブラートフ最高会議(国会)議長、ルツコイ副大統領らを逮捕して、事件は鎮圧された。

 その後、エリツィンは、家族以外を信頼しなくなる。家族とそのスポンサーであるオリガルヒヤ(寡占資本家)に囲まれた宮廷のような構造に大統領府が変化した。寡占資本家と人脈を持つさまざまなロビーストが暗躍するようになった。

 モスクワの日本大使館のA公使は、ロシア語にも堪能で、幅広い人脈を持っていることで有名だった。A公使は、カルテンブルンナー(仮名)というスウェーデン人ビジネスマンと知り合った。カルテンブルンナーは、エリツィン家の内情と共に、チェルノムィルジン首相、サスコヴェッツ第一副首相と親しいという触れ込みだった。当初、大使館もカルテンブルンナーの情報を高く評価していた。しかし、途中から筆者は怪しいと感じるようになった。日本のある総合商社が実現しようとしているプロジェクトに日本政府を誘導する方向で情報を流してくるからだ。

 筆者は、国務長官を退き国家会議(下院)議員となったブルブリスの別荘を訪ねたときにカルテンブルンナーについて尋ねた。ブルブリスは、私が話を終える前に、唇に指をあて、天井を向いた。「ここでは盗聴されているんで、まずい」という意味だ。ブルブリスが庭に出たので筆者もついていった。ブルブリスが「その男がスウェーデン人であるという裏はとっているか」と尋ねたので筆者は「取っていない」と答えた。ブルブリスは「カルテンブルンナーというのは本名ではない。スウェーデン人であるというのも偽装の可能性がある」と言った。

 筆者が「それでは何人なのか」と尋ねると「確証はないがロシア人の可能性が排除されない。GRU(参謀本部諜報総局)ならば、それくらいのことをする。日本側の信頼を得て、経済プロジェクトから利益を得ることが目的だ。遠ざけた方がいい」と言われた。A公使にこの話を伝えたが、信じなかった。

 その直後にカルテンブルンナーが東京でトラブルを起こしたので、大使館との関係は切れた。こういう小説のようなほんとうの話を筆者も何回か経験したことがある。

(2021年9月29日脱稿)


「危機の読書」アーカイヴ

佐藤 優(さとう・まさる)
1960年東京都生まれ。作家、元外務省主任分析官。同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省入省。在ソ連日本国大使館でソ連崩壊を目撃。『自壊する帝国』にて大宅賞、新潮ドキュメント賞受賞。『国家の罠』『獄中記』『十五の夏』など。

〈「STORY BOX」2021年11月号掲載〉

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