佐藤 優「危機の読書」〈第2回〉もし現代に日蓮がいたならば

佐藤 優「危機の読書」〈第2回〉もし現代に日蓮がいたならば

『代表的日本人』  (内村鑑三/著)  後編


危機の読書『代表的日本人』

 政府は、5月25日、北海道、東京、神奈川、埼玉、千葉の5都道県で継続されていた新型コロナウイルスに関する緊急事態宣言を解除した。しかし、危機的状況は今後も続くであろう。緊急事態宣言下では感染拡大を抑え、医療崩壊を避けることが最大の目標だった。今後は、経済対策が主要な課題になる。

 JAL、カネボウなどの企業再建で実績を残した冨山和彦氏(経営共創基盤代表取締役CEO)は、新型コロナウイルスがもたらす経済危機について、3段階で到来すると予測する。第一波がローカルクライシスだ。

〈出入国制限はもちろん、外出制限までもがほとんどの国や地域でかかるなか、まず打撃受けているのは、観光、宿泊、飲食、エンターテイメント、(日配品、生活必需品以外の)小売、住宅関連などのローカルなサービス産業である。(中略)こうしたL(引用者註*ローカル)型産業群は今やわが国のGDPの約7割を占める基幹産業群である。しかもその多くが中堅、中小企業によって担われており、非正規社員やフリーターの多い産業でもある。今や日本の勤労者の約8割は中小企業の従業員または非正規雇用(裏返して言うといわゆる大企業、大組織の正社員は全体の2割くらいしかいない)が占めており、ローカルなサービス産業の危機は非常に多くの、しかも弱い企業や労働者とその家族を厳しい状況に追い込むメガクライシスなのである〉(冨山和彦『コロナショック・サバイバル──日本経済復興計画』文藝春秋、2020年、13~14頁)。

 ローカルな危機に続いて第二波のグローバルクライシスが到来する。自動車、電機などのグローバル大企業のサプライチェーンが崩れるのみならず、住宅、衣料などでも世界的規模で買い控えが起きる。その結果、グローバルな展開をする大企業のみならず、下請けの中小企業も大きな打撃を受け得る。第二波の到来までは不可避と冨山氏は考えているようだ。ここまでで危機を食い止めておかないと第三波のファイナンシャルクライシス(金融危機)が起きる。金融危機が起きると、〈経済システムの血液であるマネーを循環させる「心臓」までもがひどく傷んでしまい、これがさらに実体経済を痛めつける負の連鎖に入ってしまう〉(前掲書、21頁)。

 金融危機を防ぐためにあらゆる手を打つことが政府に求められている。

 冨山氏は、〈国でも企業でも、こういう時は本気で守るべきものを明確にして優先順位をつけるべきである。今回の危機の大きさと特性を考えた時、私は守るべきものは二つ、「財産もなく収入もない人々の生活と人生」と「システムとしての経済」である。/緊急に作った緊急の対策としては、とにかく収入を失う低所得層に生活費を給付することは間違っていないし、中小サービス業が担っているローカル経済システムを守るために緊急融資だけでなく、給付金に踏み込んだのもこの際、正しいと思う。このセクターで無秩序に倒産、廃業、失業が起きた時に日本経済が中長期的に受けるダメージは、かなり大きいからだ。あとは実行段階で日本的な生真面目さ精密さを捨て、多少の不正が起きることには目をつむってスピード最優先のオペレーションを行うことができれば、それなりの効果はあるはずだ〉(前掲書73~74頁)と述べる。筆者も冨山氏と同じ認識だ。

「30万円給付」ならば大きな分断を招いた

「財産も収入もない人々の生活と人生」を保障するために、大きな役割を果たしたのが公明党だ。当初、政府は、コロナ禍によって収入が激減した家庭に30万円を給付することを考え、その前提で組まれた補正予算が閣議決定された。しかし、政府は、この決定を国民1人あたり10万円の給付に変更した。

〈政府・与党は16日、新型コロナウイルスの感染拡大を受け、国民1人あたり10万円を給付することを決めた。所得制限は設けない。緊急経済対策を含む2020年度補正予算案を組み替え、減収世帯に30万円を支給する措置は撤回する。一律10万円給付は12兆円超の財源が必要になる見通しだ。/一律10万円の給付案は公明党が主張していた。首相は16日、電話で同党の山口那津男代表に受け入れる考えを伝えた。/政府は7日に補正予算案を閣議決定し20日にも国会に出す予定だった。予算案を提出前に大幅に組み替える異例の対応となる。27日にも提出して早期成立をめざす。/減収世帯に30万円を給付する案について、与党内で制度の複雑さなどに批判が出ていた。/政府・自民党で30万円給付策を含む補正予算案の成立後、10万円の給付を盛った第2次補正予算を編成する案が浮上した。公明党は一律10万円の措置に集約して財源を回すよう主張した。/所得制限を設けずに国民全員に一律10万円を支給する場合、単純計算で12兆円超の財源が必要になる。30万円の給付策は約1300万世帯を対象に約4兆円を想定していた。補正予算案で16・8兆円と見込む歳出総額が膨らむ見通しだ。赤字国債の発行増額で賄う〉(4月16日「日本経済新聞」電子版)。

 公明党は創価学会を支持母体とする。創価学会は、日蓮仏法の系譜に立つ民衆宗教だ。だから皮膚感覚で民衆の生活実態がわかる。収入が減少した家庭のみに30万円を支給する場合、どこかで線引きをしなくてはならない。例えば、年収250万円以下という線引きをしたとする。その場合、給付の対象とならない年収260万円の世帯に属する人々は不満を持つ。境界線に近い人々だけではない。特定の人たちが30万円を給付されるということに、対象から外れた人は不満を持つ。当初案の減収世帯への30万円給付を強行した場合、日本社会に深刻な分断が生じたと思う。

 また、給付に当たっては減収世帯であることを申告する手続きが必要になる。経済的に弱い立場に置かれた人々は、情報弱者である場合が多い。手続きに関する情報が行き渡らず、受給資格があるのに、そこから漏れてしまう人が相当数でてくる。公明党にこういう目配りができたのは、創価学会から、今後生じうる事態を予測する正確な情報が入ってきたからだ。公明党の今回の取り組みは、宗教的動機に基づいていると筆者は見ている。

 前に述べたように創価学会は、日蓮仏法に基づく教団だ。日蓮の解釈では、疫病には特別の「三災七難」という宗教的意味がある。これは、正しい宗教的教えに背く、もしくは正しい信仰を持つ人々を迫害することによって生じる災害を指す。

〈三災について大集経には・穀貴[こっき](飢饉などによる穀物の高騰)・兵革[ひょうかく](戦乱)・疫病[えきびょう](伝染病の流行)が説かれる。/七難は経典により異なるが、薬師経には・人衆疾疫難[にんしゅしつえきなん](人々が疫病に襲われる)・他国侵逼難[たこくしんぴつなん](他国から侵略される)・自界叛逆難[じかいほんぎゃくなん](国内で反乱が起こる)・星宿変怪難[しょうしゅくへんげなん](星々の異変)・日月薄蝕難[にちがつはくしょくなん](太陽や月が翳ったり蝕したりする)・非時風雨難[ひじふううなん](季節外れの風雨)・過時不雨難[かじふうなん](季節になっても雨が降らず干ばつになる)が説かれる。/(中略)日蓮大聖人は「立正安国論」で、三災七難が説かれる経文を引かれ、正法に帰依せず謗法を放置すれば、薬師経の七難のうちの他国侵逼難と自界叛逆難、大集経の三災のうちの兵革、仁王経の七難のうちの悪賊難が起こると予言されている。そして鎌倉幕府が大聖人の警告を無視したため、自界叛逆難が文永9年(1272年)2月の二月騒動として、他国侵逼難が蒙古襲来(文永11年=1274年10月の文永の役、弘安4年=1281年5月の弘安の役)として現実のものとなった〉(「創価学会公式サイト」)。

 今回のコロナ禍を創価学会は、「人衆疾疫難」と受け止めて、信心に基づいて現実を変化させようとしているのだ。信仰即行為というプロテスタント原理と近いところがある。

キリスト教徒が日蓮から学ぶべきこと

 日蓮の信仰観は、キリスト教のプロテスタンティズムに近い。だから無教会派のキリスト教徒である内村鑑三は、『代表的日本人』の中で、日蓮を日本の宗教者の中でもっとも高く評価したのだ。

〈ルターにとってキリスト教の聖書が尊いのと同じように、法華経は日蓮にとり尊いものでした。/「我が奉ずる経のために死ぬことができるなら、命は惜しくない」/とは日蓮が度重なる危機に直面した折に口をついて出た言葉でした。ある意味では私どものルターと同じく、日蓮も聖典崇拝者であったのかもしれません。聖書はたしかに、あらゆる偶像や権力にまさって尊い崇拝対象であります。一書のために死をいとわない人は、多くのいわゆる英雄にまさる尊い英雄であります〉(内村鑑三[鈴木範久訳]『代表的日本人』岩波文庫、1995年、174頁)

 日蓮の法華経に対する姿勢を内村は、プロテスタンティズムの「聖書のみ」という原理の仏教版と見ている。日蓮は偉大な宗教改革者であることを内村は強調する。

〈日蓮を非難する現代のキリスト教徒に、自分の聖書がほこりにまみれていないかどうか、調べてもらいましょう。たとえ聖書の言葉が毎日口にされ、それからじかに霊感を与えられているとしても、自分の派遣された人々の間に聖書が受容されるために、一五年間にもおよぶ剣難や流罪に堪えうるでしょうか。聖書のために、身命をも懸けることができるでしょうか。このことを自分に尋ねてみてほしいのであります。聖書は、他のいかなる書物にもまして、人類の改善に役立ってまいりました。それを所持している人たちが、日蓮を石で打つなど、決してあってはならないことであります〉(前掲書175頁)

 日蓮について研究せずに非難するキリスト教徒の姿勢を内村はこのように厳しく批判する。内村にとって重要な価値は、Jesus(イエス)とJapan(日本)という「2つのJ」だ。だから日本を国難から救う目的で書かれた『立正安国論』を高く評価する。さらに仏教を日本に土着化させたという点でも内村は日蓮を高く評価する。

〈私ども日本人のなかで、日蓮ほどの独立人を考えることはできません。実に日蓮が、その創造性と独立心とによって、仏教を日本の宗教にしたのであります。他の宗派が、いずれも起源をインド、中国、朝鮮の人にもつのに対して、日蓮宗のみ純粋に日本人に有するのであります〉(前掲書176頁)

 日蓮仏法は、日本に土着化した宗教である。だから創価学会、立正佼成会などの日蓮系の教団は、現在も強い政治的影響力を持つのだ。内村はキリスト教を日本に土着化させるためには日蓮に学ばなくてはならないと考えたのである。筆者も内村の日蓮観に共感を覚える。しかし、そのような日蓮を理解する人は日本のキリスト教徒の中では少数派であるのが残念だ。

(2020年5月27日脱稿)
佐藤 優(さとう・まさる)

1960年東京都生まれ。作家、元外務省主任分析官。同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省入省。在ソ連日本国大使館でソ連崩壊を目撃。『自壊する帝国』にて大宅賞、新潮ドキュメント賞受賞。『国家の罠』『獄中記』『十五の夏』など。  

〈「STORY BOX」2020年7月号掲載〉
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