辛酸なめ子「電車のおじさん」第16回

辛酸なめ子「電車のおじさん」第16回
イケメン中途採用社員の登場で、
外山先輩への関心が急速に薄れた玉恵。
男は「逃げれば追ってくる」というけれど!?

 駅を出るとあたりはすっかり暗くなっていて、若いカップルが壁にもたれて立っていました。結構かわいい彼女がコンビニで買ったドリンクを手に持っていて、ストローから「チュルルル……」とかすかな音を立てて一口飲み、そのあと隣の彼に手渡していました。彼はポーッとした顔でストローに口をつけて飲んでいました。玉恵は、そんな間接キスの瞬間を目撃し、いちゃつきを見せられた苛立ちと羨ましさが心の奥で波風を立てるのを感じました。あの女子のドリンクを飲むときの音に女子力を感じます。今まで玉恵はそこまで気が回っていませんでした。これからは気をつけなければと思いました。外山先輩とタピオカドリンクの店に立ち寄ったときも、普通に「ズズー、ポゴポゴ」という音を立ててバキュームしていた記憶があります。あの音を聞いてさらに外山先輩は気分が悪くなってしまったのかもしれず、申し訳ないことをしました。でもそんな外山先輩への関心も急速に薄れつつある現状。颯爽と現れた中途採用社員のイケメンに、玉恵の心は引き寄せられつつありました。なぜか、営業先から帰って来たときに玉恵だけにチョコチップクッキーをくれた特別感。承認欲求が満たされ、えも言われぬ優越感が心の中に広がります。そうだ、奥野さんに何かお返しをしなければ、と玉恵は思い立ち、せんべい屋に立ち寄りました。甘いものが苦手なのかもしれないと思ったので、体に良さそうな野菜おかきを購入。この気遣いに気付いてくれるでしょうか。

 翌日、昼休み時を見計らい、玉恵は外に出て行こうとする奥野さんに声をかけました。

「あの、すみません……。昨日はありがとうございました。クッキーおいしかったです。これ、つまらないものですが」

 と、緊張しながら紙袋を差し出しました。

「ああ、ありがとう。お気遣いさせちゃったみたいで、すみません」と奥野さんはイケメン声でさわやかにお礼を言うと、笑顔で受け取ってくれました。この、人から何か物をもらうのに慣れた所作からにじみ出るモテフェロモンと、身長差に玉恵はときめきを覚えました。180センチはありそうです。鈴木先輩が見ているけれど、逆にコソコソしたくないし、これからも堂々とプラトニックの妄想を楽しみたいです。今日、はじめて眉マスカラをつけてみたのですが、潜在的に良い印象を与えられたら良いのですが……。玉恵は心を浮き立たせながら、ランチタイムに外に出て、コーヒーショップでBLTサンドを食べました。ふだんはあまりおいしくないコーヒーショップの食べ物が、今日は少しましに感じられます。新人らしい女性店員がドリンクの量を間違えて、コップからキャラメルラテがあふれて手がベタベタになりましたが、とくに苛立ちも起きませんでした。社内セレブ的な、素敵な人と接点を持てたことで舞い上がってしまった玉恵。それも食べ物という、口の中に入れるものを交換したというのにそこはかとないエロスを感じます。玉恵の片思いはプラトニックラブが基本ですが、奥野さんに対してはどうしても男性フェロモンを感じ、悶々としてしまいます。

 若干火照りながら、社に戻った玉恵ですが、ふと不穏な予感がよぎりました。デスクを見ると、机に袋が置いてありました。一瞬、さっきあげたせんべいが戻ってきたのかと思ったのですが、そうではなく別のお店の袋でした。おそるおそる開けると、中にはチョコチップクッキーが。一瞬奥野さんがまたお菓子をくれて、延々と物々交換が続いていくのかもと妄想しかけ、顔を上げたら外山先輩と目が合いました。

「それ、阿佐谷で有名なケーキ屋さんのクッキーだから、よかったら食べて。チョコチップクッキー好きなんだよね」

「あ、はい……ありがとうございます」

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辛酸なめ子(しんさん・なめこ)

1974年東京都生まれ。漫画家、コラムニスト、小説家。近著に『辛酸なめ子の世界恋愛文学全集』『大人のコミュニケーション術 渡る世間は罠だらけ』など。最新刊に『ヌルラン』がある。

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