辛酸なめ子「電車のおじさん」第18回

辛酸なめ子「電車のおじさん」第18回
企画した「手放しノート」が
発売されることが決まった玉恵。
鈴木先輩からランチに誘われて……。

 ラッシュの電車にむりやり乗ってくる人は、次の駅で降りたい人がいるのにどいてくれないことが多いです。玉恵は常々苛立ちを覚えていました。考えるまでもなく、強引に乗り込んでくるマインドの人だからこそ、降りたい人がいても譲ろうとしないのです。何としても意地になって車内にとどまろうとする、エゴまみれの男たち。ドアの前の男性が動こうともせず、あまりにも邪魔だったので、玉恵は思わず「強引に乗ってきたんだからどいてくださいね」と小声で、その男性の背中に語りかけました。しかしその言葉は男性の黒い化繊のコートに吸い込まれて無反応のまま……。玉恵は少し無常感を覚えました。かつて電車のおじさんが、玉恵の言葉に過剰反応してくれたのがむしろなつかしいです。「愛の反対は憎しみではなく無関心です」と、どこかで読んだマザー・テレサの言葉がよぎりました。混雑している電車ではわずかでも「具合悪くなるかも」という不安が芽生えると、その不安で実際気持ちが悪くなってしまうことがあるので注意が必要です。この日の朝は電車が事故で遅延していて、いつもより混雑していました。玉恵は少し血の気が引いてきたのでホームに出たあと、ベンチにしばらく座っていました。そんなときにも妄想のスクリーンが流れ出し、今、偶然奥野さんが通りかかって「どうしたの? 大丈夫?」と優しく助け起こしてくれたら……という少女漫画のようなシーンを思い描きました。しかしそのいっぽうで、たまたま外山先輩が近くにいたら、と思うとぐったりしている場合ではありません。油断しかけていた玉恵はスッと身を起こし、会社に向かって歩き出しました。

 ちょっと前までは気になる存在だった外山先輩が、今では玉恵の中ではストーカー系の危険な男性になってしまいました。男性がキモいかキモくないかをわけるものは一体何なのか考えてみたら、それはバランスなのかもしれない、と玉恵は思いました。バランスが取れていればキモくない、どこか過剰だったり欠如していたりとバランスがおかしくなっていたら、それがキモさとしてにじみ出てくるのだと思います。芸能人やモデルの見た目はハイレベルでバランスが取れているのでモテにつながりますが、一般のフツメンでもバランスが取れていたら、好感を持たれることでしょう。見た目だけではなく、雰囲気や身だしなみ、性格なども含めた全体のバランスです。外山先輩は、最近の執拗なアプローチと必死感でバランスが崩れてしまっています。でも、さわやかでデキる営業マン風の奥野さんは、かっこよくて服も洗練され、今のところ高いレベルでバランスが保たれています。

 そんな勝手なジャッジをしながら玉恵が社内を歩いていたら、柳田課長の姿が見えて、彼は低いレベルだけれどバランスが取れている……と、上から目線で判定したりしていました。するとその課長から「手放しノート、発売することになったから」と報告され、玉恵は低いレベルとか言ってごめんなさい、と心の中で謝りました。静かに喜びに浸っていたところ、不意打ちのように廊下のコーナーから奥野さんが出てきて、玉恵はドキッとしました。変わらぬかっこよさ、だと思ったのですが、判定モードになっている玉恵の目はわずかな違和感を察知。何か妙に唇が赤いというか、体の周りを取り巻く磁場が乱れているような印象です。軽く会釈し、そのまますれ違いましたが、この胸のざわめきは何なのでしょう。というか、お菓子を交換してちょっと親しくなった気がしたのに、あれから完全に放置されています。塩対応が寂しいですが、きっと仕事がお忙しいのだと、玉恵は自分を納得させました。

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辛酸なめ子(しんさん・なめこ)

1974年東京都生まれ。漫画家、コラムニスト、小説家。近著に『辛酸なめ子の世界恋愛文学全集』『大人のコミュニケーション術 渡る世間は罠だらけ』など。最新刊に『ヌルラン』がある。