辛酸なめ子「電車のおじさん」第19回

辛酸なめ子「電車のおじさん」第19回

鈴木先輩から、イケメン社員奥野さんとの
肉体的な接触をカミングアウトされた玉恵。
二人のラブシーンの妄想が止まりません。

 なぜ、鈴木先輩と奥野さんは一晩のアバンチュールに至ったのでしょう……。今まで玉恵は鈴木先輩のことをとくに美人だと思ったことはなく、いたって普通の30代女性だと思っていました。若さゆえの傲慢さで、内心、20代の自分のほうが勝っているとすら感じていたのです。もしかしたらその思いが知らず知らずのうちににじみ出て、鈴木先輩との関係に影を落としていたのかもしれません。

 その、鈴木先輩は派手な美人ではないにしろ、おとなしそうな見た目が癒し系の雰囲気を醸し出し、しかもよく見ると巨乳でした。会社に戻った玉恵は、鈴木先輩をそれとなくチラ見して、もしかしたら先輩は男好きのするタイプなのかもしれない、と評価を改めました。毛玉がついているニットもスキがあってエロいです。スピリチュアル好きということで若干男性を遠ざけているところがあるかもしれませんが、よく見たら顔立ちも地味に整っています。奥野さんとの事後は、内側から火照り、不思議な色香が漂っているようです。鈴木先輩が感化されたというマグダラのマリアの効果でしょうか。

 玉恵が仕事の合間にこっそり「マグダラのマリア」で検索すると、抜けるような白い肌でデコルテを露出した美女の絵がたくさん出てきました。彼女があの清廉潔白なイエス様を誘惑したというのでしょうか。一説には妻だったといわれています。プロの女性なので様々なテクニックを持っていて、男性を骨抜きに……。マグダラのマリアの豊満なバストが、鈴木先輩と重なり、頭の中を様々な妄想が駆け巡ります。自分のことについてはプラトニックを通していた玉恵ですが、人のことについてはいくらでも妄想して良い、と今さっきルールを作りました。

 頭の中から、二人のみだらな行為の幻想が消えません。今まで禁欲を貫いていた反動でしょうか。心の内側には、若い女性としてくすぶるものがあったようです。以前観たことがある映画のラブシーンの断片と、鈴木先輩と奥野さんの顔が頭の中でコラージュされ、二つの肉体が絡み合うビジョンが浮かびます。AVの類いは観たことがない玉恵なので、まだ一般の映画止まりの妄想でした。揉みしだかれて恍惚の表情を浮かべる鈴木先輩の顔。そして背後から抱きすくめる奥野さんの腕に血管のような筋が浮き上がっているのがまたエロいです。目の奥がよどんでいくような感じですが、妄想をやめられません。性欲というのは思った以上に厄介なもの。男性はもっと激しいうずきや衝動に襲われ、理性で抗っているのでしょうか。たとえ地位のある男性でも、ひとたび性欲に支配されてあやまちでも犯せば、簡単にその地位を失ってしまいます。仕事中、ちょっと性欲にかられただけでも、こんなにエネルギーを消耗し、罪悪感を覚えるのだから、今さらながら男性の苦労が察せられます。玉恵は冷たい水を飲んだり、神社に行ったときに買ったお守りなどを眺めていたら、落ち着きを取り戻してきました。その後、奥野さんを社内で見かけたとき、玉恵は一瞬心が収縮する感じがしましたが、そのあとは冷静でいられました。淡泊そうな顔でさわやかなイケメンだと思っていた奥野さんが、彼女がいるというのに、欲求を抑えることができないかわいそうな人だったとは。海綿体に操られている彼にむしろ憐れみを感じます。その後ろ姿に向かって、声を出さずに早口で「巨乳が好きなんだね」と玉恵は語りかけました。

 いっぽう、ストーカーじみた行為をくり返す外山先輩は、玉恵に対してどんな欲求を抱いているのか、気持ち悪すぎて想像したくありません。淫乱になった鈴木先輩が、むしろ外山先輩のことも誘惑してくれたら良いのに、と玉恵は思いました。鈴木先輩は以前、外山先輩の高学歴ぶりや家柄が気になっていたらしいので、全力で応援したいです。しかしリビドーのスイッチが入った鈴木先輩は、意外にも柳田課長に興味を示していました。彼女持ちとか妻子持ちとか、人のものが欲しくなる罪なタイプなのでしょうか。

「ねえ、知ってた? 課長って以前鉄道会社で働いていたとき、労働組合との交渉役をさせられて、疲れて文房具の世界に入ったらしいよ。意外性があっていいよね。しかも鉄道会社なんてエリートじゃない」

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辛酸なめ子(しんさん・なめこ)

1974年東京都生まれ。漫画家、コラムニスト、小説家。近著に『辛酸なめ子の世界恋愛文学全集』『大人のコミュニケーション術 渡る世間は罠だらけ』など。最新刊に『ヌルラン』がある。

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