辛酸なめ子「電車のおじさん」第20回

辛酸なめ子「電車のおじさん」第20回

神社で電車のおじさんに再会した玉恵。
おじさんの欲望は洗われたのでしょうか。
玉恵はさり気なく聞いてみました。

「ちょっとお参りしてきます」と玉恵はおじさんに告げ、亀戸天神の本殿に向かいました。厳かな気持ちで二礼二拍手一礼をしてお賽銭を入れると目を閉じ、(会社の風紀の乱れがおさまりますように。煩悩が浄化されますように)と心の中で祈りました。

 お参りを終えると、おじさんが待っていて、

「ここでは学問の神様をお祀りしてるんだよ。立身出世のご利益もあるから仕事の昇進にも効果があるかもな」と話しかけてきました。社内の男女関係の乱れについてお願いしたとはとても言えませんでした。

「そうですね。雑念をなくして仕事がんばりたいです」

 という玉恵の言葉に、

「女性が仕事で活躍する。いい世の中になったな~」とおじさんは半ば独り言のようにつぶやきました。そのとき、玉恵は心の奥にあった軽いトラウマが一つ浄化されたように感じました。一年くらい前に友人に誘われて行った人相占いで、電車のおじさんと同年代かもしれない70代くらいの占い師の男性に「もう20代後半なんだから、そろそろ子どもを作らないと。ご先祖様もそれを望んでいますよ」と言われたことがありました。そのとき、旧態依然とした価値観を押し付けられ、結婚して子どもを産むのが女の幸せで、それ以外は認めないようなおじさんの態度に少なからず傷ついたのです。そしてその言葉が刺のように心のどこかでずっと引っかかっていました。この年代のおじさんは全員、女性は家庭に入るべきだと思っている、という先入観が苦手意識を増幅させていました。でも、どうやらそうでないニュートラルなおじさんもいるのです。玉恵は晴れやかな気持ちになって空を見上げると、木に止まっていたかわいい鳥が飛び立つのが見えました。吉兆かもしれないと嬉しくなりました。心がオープンになり、自分の仕事の話をしたくなってきた玉恵。

「今度、手放しノートというものを企画したんです。夢引き寄せノートの逆バージョンで、自分が手放したいことを書くんですが、そのノートにどんなことを書きたいですか?」と、おじさんにたずねてみました。

「腰痛。足の痺れ。老眼。頻尿。めまい。イライラ。お金の心配。いっぱいあるよ。でも最近物忘れが激しいから、手放しノートに書く前に全部忘れちゃうかもな」

 おじさんは諦念の混じった笑顔を浮かべました。

「そうですか、お大事にしてください……」

 ふと、実家の父は元気だろうか、と玉恵は思いを馳せました。まだ70代ではないものの、様々な不調が出てくる年頃です。

「江戸時代は人間の平均寿命は50歳といわれていたし、この前新聞で読んだけど遺伝子を研究すると人間の寿命は本来38歳くらいのはずだったってよ。今生きているだけで奇跡なのかもしれないね」



辛酸なめ子(しんさん・なめこ)

1974年東京都生まれ。漫画家、コラムニスト、小説家。近著に『辛酸なめ子の世界恋愛文学全集』『大人のコミュニケーション術 渡る世間は罠だらけ』など。最新刊に『ヌルラン』がある。

本の妖精 夫久山徳三郎 Book.75
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