辛酸なめ子「電車のおじさん」第24回

辛酸なめ子「電車のおじさん」第24回
「手放すことは許すこと」
ある種の真理に気付いた玉恵は、
ノートに手放したいことを書いてみました。

 玉恵がスマホのニュースアプリを立ち上げると、近い将来、虎ノ門ヒルズ駅がオープンする予定というニュースが目に入りました。東京メトロ日比谷線に約56年ぶりの新駅誕生だそうです。奥野さんが今度イベントにファシリテーターだかモデレーターで出るという会場に駅が直結するとは。まるで奥野さんが駅を引き寄せたかのように玉恵には感じられ、彼のカリスマ性にひとりで胸がいっぱいになっていました。今度会ったら「虎ノ門駅、おめでとうございます」と言ってしまいそうです。

 玉恵は鈴木先輩のパワーストーンでも眺めて、落ち着こうと思いました。鈴木先輩が退社したあとの机には、ローズクオーツや水晶、アメジストが並んでいました。素人から見ても、石に元気がないというか色がくすんでいるのが気になります。石たちに囲まれて「手放しノート」が置かれているのが玉恵の目に留まりました。好奇心にかられた玉恵は、そっとページを開きました。するとそこには……

「受付のブス、マジむかつく」「奥野は性獣」「男なんてクソ」「係長が乳首透けててキモい。インナー着て」「駅でイチャつくカップルって何でブサイクなの?」「コンビニの店員がおつりでくれた10円玉がサビまくってた」「漫画アプリのCMの曲イライラする」「外山先輩の目つきが邪顔」「バチェラーの最終回ありえない」「うどん屋の注文の取り方が威圧的」

 など、悪口の数々が書き連ねられていて、玉恵はこれ以上ページをめくると自分の悪口が書かれていそうな気がして怖くてノートを閉じました。

「手放しノート」にこんな使い方があったとは……。スピリチュアル好きの鈴木先輩はこのノートにネガティブなものを吐き出すことでデトックスしていたのかもしれません。ここに雑念や怨念、悪口を書くことでいったんはリセットできるのでしょう。無防備に放置されているこのノートが他の社員の目に留まらないことを祈ります。

 スピリチュアル好きで精神性を高めているはずの鈴木先輩が、実はこんなに心に闇を抱えていたとは……玉恵は戦慄を覚えました。ふだん天使とか高次元の宇宙人とか光の部分を求めているからこそ闇の部分が色濃くなってしまったのでしょうか……。自分で言うのもなんですが、もしかしたら玉恵のほうが、鈴木先輩よりもノートの使い方が模範的というか、純粋な気がしてきました。「手放すことは許すこと」というある種の真理に気付いた玉恵は、ストーカーじみた行為を繰り返した上にネガティブな噂を流してきた外山先輩を許そうと思い、「手放しノート」を活用してきて、おかげで徐々に心の曇りは晴れてきたようです。しかし、先日ショッピングモール横の公園で偶然会った電車のおじさんのノートの使い方は、さらにそのななめ上を行っていました。自分の銀行口座の暗証番号や預金額まで書いていて、終活ノートのような使い方をしていたとは。あの個人情報を人に見られたらどうするんでしょう。玉恵はそんなことをするつもりはありませんが、ショッピングモールで、おじさんにちょっとキャッシュカード貸して、って言って何万円かおろしても気付かれないような気がしました。おじさんは自分の所有物への執着が薄らいできているのでしょうか。もしかしてそろそろ、この世に別れを告げる準備をしているとか……。玉恵はつい縁起でもないことを妄想。よく、死期を悟った老人が突然、たんすや押し入れのものを処分したり身辺整理をし出すと聞いたことがあります。物忘れが多くなっていくのも、全てのとらわれから解放されていく自然な過程なのかもしれません。先日の穏やかな表情が心に残っています。駅で怒っていたおじさんとは別人のようでした。次に会ったときはもしかしたら玉恵のことも忘れているかもしれませんが、少し寂しいけれどそれでも良いという気持ちでした。人が年を取るに連れて、子どものように無邪気になっていくのが、おじさんの姿を通して伝わってきます。かわいい老人になることで、周りの人に世話をしてあげたいと思わせ、介護本能をくすぐることも、人間に備えられたプログラムなのでしょう。



辛酸なめ子(しんさん・なめこ)

1974年東京都生まれ。漫画家、コラムニスト、小説家。近著に『辛酸なめ子の世界恋愛文学全集』『大人のコミュニケーション術 渡る世間は罠だらけ』など。最新刊に『ヌルラン』がある。

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