辛酸なめ子「電車のおじさん」第5回

辛酸なめ子「電車のおじさん」第5回

新しいノートの企画「終活手帖」は
企画会議ではなかなかの手応え。
玉恵はいつになく熱弁を振るいました。


「すみません、ご一緒するのはちょっとはばかられるというか……余裕がなくて……」

 するとおじさんのメガネが乱反射したのか一瞬キラッと光り、

「マイルならあるよ。結構たまってるから」と、お財布からカードをチラ見せしてきました。あれはもしかして、実家の父が入りたいと願望を語っていたけれど、紹介制で入れなかったダイナースのブラックカード。おじさんはやはり富裕層だったのでしょうか。1ミリも心が動かなかったと言えば嘘になります。でも、70代(仮)とはいえ男性と一緒に旅行するのは危険です。実家の両親に知られたら卒倒されかねません。そもそも自分のおじいちゃん孝行もちゃんとできていないのに……。おじさんの「結構たまってるから」というセリフも、何か別の意味がこめられていそうでイヤです。玉恵の心に抵抗の波が押し寄せました。

「すみません、やっぱり無理です」

 玉恵はきなこ豆乳ラテを急いで飲み干すと、席を立ち、店を出ました。おじさんの淋しそうな視線を首筋に感じながら……。

 その日から、一抹の後ろめたさが続き、何となくついていない日々です。玉恵が電車に乗ったら、おじさんのリュックに押され、出口のところでは両脇で体を硬くして動こうとしないおじさんに阻まれ、降りるのに難儀しました。入口脇で動こうとしないおじさんのことを通称「狛犬」と呼ぶそうです。電車で押してきたあのおじさんが攻めだとしたら、狛犬は守りでしょうか。電車ではそれ以外にも微妙に不快なできごとがあり、それは玉恵の責任もあるのですが、デパ地下で買って帰ったお惣菜のパックが、混んでいる車内で気付いたら、知らないおじさんのお尻に刺さっている格好になっていたのは衝撃でした。そのお惣菜は、気持ちの問題かもしれませんが、味も変になったような……。1000円もしたのについていません。

 また別の日、玉恵は横暴なタクシー運転手に遭遇。行き先を伝えると「は?」と何度も聞き返され、三度目でやっと伝わったと思ったら、目的地と全然違うところにおろされました。おじさん難の日々は続き、ある夜などは、道で横断歩道が青になるのを待って立っていたら、たまたま窓を開けて通りかかった車の運転席のおじさんに、「ぶあっくしょん!」と、勢いよくくしゃみをかけられました。飛沫が飛んできて、顔についた気がして、玉恵はコンビニのトイレにかけこみ、急いで洗い流しました。これでまた風邪でもひいたら運が悪すぎです。しかしそのコンビニでも油断できませんでした。トイレを借りたので、せめて何か買って行こうと思い、ドリンクを持って列に並んだ玉恵。そのコンビニのレジ待ち場所は、横からも後ろからも行ける動線があり、横から歩いて行った玉恵のしばらく後に、まっすぐ後ろから歩いてきた男性客がいて、タイミング的にも玉恵の方が2秒くらい早かったのに、横から歩いてきた玉恵はあろうことか、コンビニ店員に割り込み扱いされてしまったのです。

「後ろのお客様の方が先になります!」と大きな声で言われて、玉恵は恥ずかしい思いをしました。今流行りのグレイヘアだか何だか知りませんが、メガネでマスクをかけたおじさんを、玉恵は忌々しげに凝視しました。そして結局、ドリンクを買わずに棚に戻して、コンビニを出ました。せめてもの女のプライドです。このことはコンビニのお客様相談室に投稿すべきでしょうか……。玉恵の心は殺伐としていました。

 ふと、玉恵の頭をよぎったのは、もしかしたら私はおじさんに復讐されている? ということです。ひとりのおじさんに冷たくすると、集合的無意識でつながっている日本中のおじさんたちにそれが伝わり、おじさんたちに仕返しされてしまうのかもしれません。目には目を。歯には歯を。おじさんにはおじさんを。おじさんを悲しませる者はおじさんに泣くのです。玉恵はおじさんの見えざる連帯パワーに戦慄しました。

電車のおじさん

〈「きらら」2019年1月号掲載〉
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辛酸なめ子(しんさん・なめこ)

1974年東京都生まれ。漫画家、コラムニスト、小説家。近著に『辛酸なめ子の世界恋愛文学全集』『大人のコミュニケーション術 渡る世間は罠だらけ』など。最新刊に『ヌルラン』がある。

◎編集者コラム◎ 『旅ドロップ』江國香織
◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第50回