辛酸なめ子「電車のおじさん」第9回

今までは内心イラっとしていた玉恵でしたが、
だんだんかっこよく思えてきました。
鈴木先輩は、玉恵の石を握ってしばらく目を閉じていました。玉恵は、石を通じて鈴木先輩に、玉恵の気持ちが伝わらないかハラハラしました。でも、先輩は「ほうれい線薄くなったかな」と言いながら、立ち去っていきました。後輩の恋愛願望よりも自分のアンチエイジングのほうが大切のようです。
玉恵は机に座って事務的な作業をしながら、さきほどの外山先輩との会話を脳内で何度も再生しました。
(グッドデザインアワードって言ったとき、こう言えば良かった。東京ミッドタウンにあるデザイン系の美術館に、今度視察に行きませんか、って)
(それか、KITTEの中の、グッドデザインアワード受賞作専門店に行きませんか、って誘うのもいいかも……)
ミッドタウンもKITTEも、中にいい感じのカフェやレストランがたくさんあります。流れでお茶したりできるかもしれません。
(ミッドタウンだったら、とらやがいいかも。KITTEはサザコーヒーかな~)
こうやって妄想しているのが一番楽しいです。
玉恵は、自分の趣味はプラトニックラブかもしれない、と思いました。あくまでもプラトニック。できれば相手に気付かれないくらいが理想です。脳内恋愛の域ですが、そっと意中の男性を見つめて、心の中で恋心を育てます。それは、小麦粉でパンとか焼き菓子を作るのに似ています。材料をこねて、しばらく寝かせて、そして加熱して膨らませる。スイーツは恋愛が食べ物として具現化したようなものかもしれません。
でも、食べてしまえば終わりです。恋愛も、関係を持ってしまえば、あとはいつか倦怠とか別れとか訪れる運命に。修羅場にでもなったら大変です。だからスイーツは、食べないでずっと眺めているのが楽しいし、エネルギーも消耗しません。飽きたら自分の意志で捨ててしまえば良いのです。プラトニックラブの主導権はこちらにあります。
思い返せば、これまでの玉恵の恋愛はプラトニックラブばかりでした。高校時代は、隣の男子校のサッカー部のイケメンを想い、よく校庭を駆け巡る彼を眺めていました。一度、バレンタインデーにチョコを渡したけれど、渡してすぐに走り去って、連絡先も知らせていません。彼の戸惑った表情だけでも、しばらく妄想の燃料になりました。
大学時代好きだったのは、同じ学部の同級生。たまにキャンパスですれ違って、目が一瞬合って会釈するので十分でした。それに、彼はいつもきれいな女の子を連れていました。
社会人になって、プラトニックを超えて一人、バイトの同期と付き合っていました。相手からのアプローチがあって、断りきれず、ルックスもまあまあ玉恵の好みだったので……。玉恵はそのときはじめて性行為にまで至ったのですが、そのときの彼の顔があまりにも真顔で怖くなり、とにかく男性の必死さに引いてしまい、以来、やっぱりプラトニックラブがベストだという結論に至ったのです。とはいえ完全に肉体的接触を拒んでいるわけではなく、手をつなぐとか軽いキスくらいまでは妄想の範囲内です。ただ妄想にも段階があるので、玉恵はまだ先輩とキスまではイメージしていませんでした。