辛酸なめ子「電車のおじさん」第9回

辛酸なめ子「電車のおじさん」第9回
教養アピールばかりしてくる外山先輩に
今までは内心イラっとしていた玉恵でしたが、
だんだんかっこよく思えてきました。


(プラトニック手帳なんて作ったら売れるかも?)

 そんな雑念がよぎりつつ、というか心は雑念まみれですが、玉恵は仕事の合間に外山先輩について考えました。ワンルームに住んでいるらしいから、女っ気は感じられない。ときどき服にしわがついているし。あ、寝癖もあるときがあって、そこが萌えポイントかも。

 そんな他愛もないことを考えていると、楽しくなって血行も良くなってきた感があります。プラトニックラブというか脳内恋愛は、仕事のやる気を増したり、元気になれる効果があります。リスクはほとんどありません。

 ただ、副作用かもしれないのは、恋愛モードになると女性ホルモンの関係か、やはり人肌が恋しくなるという面もあります。もちろん性行為なんて、疲れることは求めていません。ただちょっと、悶々とした思いを解消したいだけです。

 久しぶりの脳内プラトニック期間、玉恵は仕事終わりに銀座に赴き、コスメのお店に行きました。「このリップ、試してみていいですか?」と玉恵はピンクのリップを指差しました。販売員の女性は、

「では、今付けているリップを落としますね」と、コットンに化粧水を付けて、ゆっくりと拭き取っていきました。そして、玉恵の唇を至近距離で見つめながら、慎重な手つきでブラシを使い、バームを塗りました。玉恵は軽く目を閉じ、唇への感触に集中しました。次に、販売員の女性はリップを手に取り、リップブラシを使って輪郭から丁寧に塗っていきました。

 塗り終わったあと、「こちらで軽くオフしてください」とティッシュを手渡されたので、玉恵は唇を半開きにしてティッシュに唇をつけました。フランス人女性がキスするときのように。

「よくなじんだ気がします」と、玉恵が鏡をのぞくと、そこにはやや紅潮した顔の自分がいました。明るいピンクのリップが、恋心をかき立てます。ふと、あのおじさんがこのリップを見たらどう思うだろうという考えがよぎりました。昭和初期生まれのおじさんなので、色気づいているとか、あばずれと思われるかもしれません。でも、今はおじさんの価値観は置いておいて、自分の直感に従います。

「これ買わせていただきます」「ありがとうございます。4100円になります」

 内心、高っ……と思いましたが、もう後には引けず、購入。 それから玉恵はマッサージの店に吸い寄せられました。30分で3500円の骨盤矯正マッサージ。リップを買った時点で財布のひもが緩んだ状態になっていました。

(3500円ならいいかな)と、玉恵は中に入ると、施術してくれるのは男性スタッフでした。玉恵はダサい黒い上下に着替えると、施術室へ。ベッドに横たわるや否や、

「体が歪んでいますね」といきなり言われて、オラオラ系の施術師に激しくマッサージされました。もちろん臀部も入っていましたが、されるがままの玉恵。初対面の何の思い入れもない、一回で忘れそうなフツメンの施術師でしたが、ただ男性である、というだけで、陰陽の陽のパワーを注入してくれる貴重な存在でした。玉恵は、短時間のマッサージで、自分の内側の、プラトニックで埋められない部分が満たされていくのを感じました。

「ピピーピピーピピー」玉恵を現実に引き戻したのは、時間終了を告げるタイマーの音でした。

「ありがとうございました。3500円になります」

 この日使ったのは、7600円……。プラトニックラブは、お金がかかります。

電車のおじさん

〈「きらら」2019年5月号掲載〉
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辛酸なめ子(しんさん・なめこ)

1974年東京都生まれ。漫画家、コラムニスト、小説家。近著に『辛酸なめ子の世界恋愛文学全集』『大人のコミュニケーション術 渡る世間は罠だらけ』など。最新刊に『ヌルラン』がある。

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