◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第1回

「正義」とは!?若き女性弁護士が困難な刑事裁判に臨む、本格法廷サスペンス連載スタート!
序章──予震
「弁護人、最終弁論をどうぞ」
静まりかえった法廷に裁判長の声が響く。
「はい」
答えた川村志鶴(かわむらしづる)は、弁護人席の正面の検察官席の背後に置かれた椅子に座る、自分と同い年の女性の視線に気づいた。
彼女の目はまっすぐ志鶴に向けられている。
公判が始まってから、審理の最終日に当たる今日で九日目を数える。彼女は初日からずっとそこに座って、ほぼすべての時間を被告人、あるいは志鶴を見ることに費やしていた。
黒いワンピース姿。髪の毛は肩に届くか届かないかの長さで、ほんのわずかにブラウンがかっている。ほとんどメイクをしていない、清楚さを感じさせる顔立ち。同性である志鶴の目から見ても、守ってあげたくなるようなかわいらしい女性だ。
死亡した「被害者」の妻。被害者参加制度を利用して関係者として裁判に参加した彼女は、審理のほとんどの過程において気丈に振る舞っていた。裁判官や裁判員、傍聴席に座る満席の傍聴人、マスコミの記者たちに対し、けなげささえ感じさせていたとしても不思議ではない。
刑事訴訟法では、被告人ないし傍聴席との間に遮蔽措置を講じることも認められている。が、彼女はそうせず、弁護人席と向き合った当事者席に着いている間、その視線により、常に志鶴と、志鶴が弁護する被告人に静かな、だが確かな圧力をかけ続けていた。
栗原未央(くりはらみお)という。
結婚してわずか二年。七ヵ月前に第一子を授かったばかり。友人の紹介で知り合って結婚した夫は消防署に勤める消防士で、同僚からの信望も篤(あつ)かった。
真面目な消防士が、キャバクラに勤務する女性と交際し、彼に妻子があるのを知って激情に駆られた女性に殺害された、痴情のもつれによる殺人事件。それが冒頭陳述で検察官が示した事件への見立て(ストーリー)だ。求刑は懲役十六年。
志鶴は未婚で子供もいない。が、栗原未央が幸福の只中(ただなか)にあったろうことは想像に難くない──不倫相手のマンションで、夫が「不倫相手に刺されて亡くなった」と知らされるまでは。同じ二十七歳の女性として、夜中の三時に警察からの電話で起こされ、そう聞かされたときの彼女の衝撃と絶望を、志鶴には他人事(ひとごと)でなく思い描くことができる。
彼女のことを「被害者の妻」とは、ほんの一ミリも思っていないが。
被告人を弁護する弁護人という立場もある。が、それだけではない。
志鶴は、判例を引くのでもないかぎり、自らの依頼者を法廷で決して「被告人」とは呼ばない。
星野沙羅(ほしのさら)。それが、志鶴の隣に、刑務官に付き添われて座る依頼人の名だ。
殺人の罪で起訴されたが、無罪を訴えて争っている否認事件。自らの命運がかかっている彼女にとって、当事者のみならず多くの人の前でプライバシーを赤裸々に暴かれ、裁きを受ける公判期日の法廷は針の筵(むしろ)そのものだろう。
栗原未央の無言の、けれど絶え間ない断罪の視線は、星野沙羅の消耗した精神をさらに削り取っている。休廷している間など、志鶴は力づけるよう言葉をかけているが、彼女の全身を覆う空気は、どんどん重さを増し、物理的にもじわじわと沙羅を押し潰していっているかのようにさえ見えた。