◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第10回

一刻も早く被疑者と接見しなければ。志鶴は勇んで警察署に乗り込むが……。
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初回接見が時間との戦いとなるのは、弁護士の到着が遅れる間に違法な取調べが行われ、それによって自白調書が取られてしまうおそれがあるからだ。
報道によれば被疑者はすでに自白をしているが、だからといって遅れていいわけではない。累犯者ならともかく、被疑者となった人の多くは自らに認められている防御権も知らずに取調べを受け、捜査官にとって都合のよい供述を取られて調書化されてしまうのだ。そして、ひとたびそのような調書が作られてしまえば、あとになって裁判で覆すのは絶望的になる。
足立南警察署へ向かう電車の中で、志鶴は初回接見でなすべきことを、常備しているチェックリストで確認した。それからスマホを取り出し、ネット上で事件と被疑者に関する情報を可能な限り収集する。被疑者の名前で検索するとこの事件のニュースがらみの情報は出てくるものの、志鶴が調べた範囲では、それ以外の結果はヒットしなかった。SNSのアカウントも。
西新井の駅の改札を飛び出すと、スマホの地図アプリを見ながら警察署へ急いだ。足立南警察署は見通しのよい道路に面して建つまだ新しさを感じさせる大きなビルで、五分もかからず着いた。エントランスドアを抜けると、こぎれいなロビー。受付は左手だ。カウンターの向こうの制服姿の男性事務職員をつかまえ、身分と目的を告げる。
彼が内線で留置管理課に連絡してくれた結果は、「今まだ取調べ中だそうです」。
「では刑事課に取り次いでください」志鶴は言った。
今度は刑事課に連絡し、受話器を置くと彼は志鶴に「担当の刑事が来るまで、お待ちください」と言った。志鶴は重いバッグを肩にかけたまま、ロビーに置かれたソファには座らず立って待った。
一分、二分、三分、四分……志鶴が事務職員に催促しようとしたところで、階段を降りてきたスーツ姿の男性が、こちらに近づいてきた。志鶴を見、カウンターの中に目を向けると、取り次いでくれた職員が彼に気づいて、志鶴を手で示した。私服警官が志鶴の前で立ち止まる。三十歳くらいだろうか。志鶴を見て、スーツの襟元の弁護士バッジに目を向け、ふたたび視線を合わせた。
「弁護士さん?」
疑っているわけではないが、値踏みする口ぶりだった。志鶴は年齢より上に見られた経験がない。まだ新しい弁護士バッジが彼の目に初心者マークのように映ったとしても不思議はなかった。
「弁護士会の委員会派遣制度による当番弁護で来ました」氏名と所属事務所を告げる。「増山淳彦さんに接見させてください」
「なるほど、なるほど」と繰り返す彼も、刑事としてはまだ若い方なのかもしれない。「しかし、ずいぶん早いんですね。弁護士さんって、テレビの前にへばりついてる暇あるんだ」
皮肉をまぶした様子見のジャブを繰り出してきた。
「世間の注目が集まる事件では、警察の勇み足による不当逮捕も行われがちですから」
志鶴の挑発的な応答は刑事には意外だったようで、鼻白むような顔をした。
刑事弁護士が警察署で歓迎されることはない。常日頃、最前線で犯罪被害者に接し、犯罪者と対峙(たいじ)している彼らにしてみれば、天敵か、よくても疫病神のようなものだろう。志鶴としては、舐(な)められるよりは敵視される方がずっといい。
刑事は、無防備な反応を悔いるかのような渋い顔になり、それから、気を取り直すように芝居がかった表情へと転じた。
「うーん、困ったね。まだ取調べの真っ最中なんだよね」丁寧語の手間は省くことにしたらしい。
「では、即刻取調べを中断してください」
「いやね、そういうわけにはいかないでしょ」相手の顔に狼狽(ろうばい)の色がにじむのを志鶴は見逃さなかった。「これだけの事件の取調べなんだから」