◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第106回

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第106回
断章──鴇田 08
「ホテル、ですか?」と助手席で訊ねる萌愛。鴇田の車が向かったのは──。

 家の近くは避けたいという彼女が指定した待ち合わせ場所は、隣接した足立区綾瀬(あやせ)にある小さな公園だった。夕方六時。まだ完全には暗くなっていない。私服でベンチに座っていた萌愛に鴇田はすぐ気づいた。公園には他に、萌愛がいたのとは離れたベンチに煙草(タバコ)を喫(す)いながらスマホを見ている中年男が一人いるだけだ。美人局のバックだろうか? だがそれならこんな目につく場所にはいないだろう。

 車を停(と)め、スマホを取り出してインスタブックのダイレクトメッセージで着いたことを知らせた。スマホを見た萌愛は顔を上げて視線を巡らせ、車と鴇田に気づいた。フロントウィンドウごしに鴇田がうなずくと、萌愛は立ち上がり近づいてきた。服のセンスは貧乏臭くて最悪だったが、本人は写真より魅力的だった。

 助手席のドアを開けると彼女が乗り込んでシートに座り、ドアを閉めた。

「かわいいじゃん」鴇田はほとんどの女たちを安心させる笑顔を向けた。

「そ……そうですか」はにかんで顔を赤らめる。

 好感触だ。鴇田は彼女を知らないが、彼女はインスタブックの投稿を通じて鴇田を知ったような気になっている。芸能人に対するように憧れすら抱いているかもしれない。ストリートでのナンパと違い、信頼関係を構築する最初の面倒な手間が省けた。

「シートベルトかけて。じゃ、行こうか」

 彼女がシートベルトをかけると、鴇田は車を発進させた。

「ホテル、ですか……?」

「いつもはそうするんだけど、今日は違う」荒川の方へ車を走らせながら答える。「中学生連れじゃさすがに入れないよ」

「じゃあ、どこで……?」

「俺に任せて」

 彼女が葛飾区に住んでいると聞いてあることを思いついた。六、七年前、勤務先の造園業者で荒川河川敷の植栽を整備するという仕事を任され、二週間ほど通った。

 道具を積んだ車で現場へ入る際、北区にある管理事務所でその都度鍵を借りなくてはならなかった。一般道から河川敷の、川に沿って走るアスファルトの道路に入るポイントにことごとく設置されている回転式の車止めゲートを開けるためだ。河川敷で作業する業者は現場に出入りするに当たり、いちいちこのゲートを解錠し、施錠しなければならなかった。

 最後の日、一日の作業を終えて河川敷を出ようとすると、ゲートが開いたままになっていた。どこかの業者が閉め忘れたのだろう。開ける手間が省けたのをラッキーに思いつつゲートを抜け、車を停めて施錠しようとすると、回転式の太く大きなバーの根元にかける巨大な南京錠(なんきんじょう)に鍵がついたままだった。鴇田は周囲を見回した。すっかり暗くなった周辺に、人影も他の業者の車も見当たらなかった。ゲートをロックしてその鍵を抜いた鴇田は、管理事務所に借りた鍵を返し、忘れられていた鍵を自分のものにした。確たる理由があったわけではない。盗めるチャンスがあったからそうしただけだ。

 その後、管理事務所が鍵の紛失に気づいたかどうかは知らない。現場の河川敷を訪れる機会もなかった。が、盗んだ獲物の存在を忘れたこともない。今日、待ち合わせ場所に来る前、荒川河川敷の記憶にある車止めゲートへ向かい、持って来た鍵を試してみると南京錠が開いた。まだ変えられていなかったのだ。いったん施錠したうえで公園へ向かった。

里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

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