◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第106回

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第106回
断章──鴇田 08
「ホテル、ですか?」と助手席で訊ねる萌愛。鴇田の車が向かったのは──。


 ラブホテルは警察の指導を受け、事件があったときのために出入り口の防犯カメラで客の顔を録画している。あとで淫行条例などに引っかかった際ばっちり証拠が残ってしまう。

 もう一つ。美人局だった場合、ラブホテルだとバックにいる男たちに襲撃や待ち伏せの機会を与えてしまう。戦うにしてもこっちから不利な状況を作ることはない。

 鴇田は萌愛を乗せた車を荒川河川敷のゲートの手前に停め、ゲートを開けて車を乗り入れてからまたゲートをロックした。

「え……鍵とかあるんですか?」

「まあね」

「すご……」

 鴇田が造園業者の仕事で通ったのも今と同じような季節だった。河川敷のこの辺りは暗くなるとほとんど人影がなかった。近辺は決して治安がいいとは言えない土地柄だ。河川敷と住宅地の間に幹線道路が走っていることもあり、何かあって大声を出しても誰かに聞きつけられるとは思えない。この時間帯にわざわざ歩き回るのはよほどの物好きだろう。

 街灯の光もほとんど届かない場所を、鴇田はバックミラーを見ながらゆっくり車を走らせた。つけてくる人や自転車の姿も見えない。

 前方右手に、背の高い灌木(かんぼく)が壁のように生い茂るのが見えてきた。念のため最新のグーグルマップで記憶を確認したとおり、その背後に、川の方へ向かって突き出す短い分岐路があった。鴇田はそこへ車をバックで入れ、三メートルほど進んだところで停めた。

 美人局だったとしても車は鴇田を追ってここまで入ってくることはできない。バイクもだ。相手がこの場所を突き止め襲撃してきたとしてもドアロックをかけていればすぐに踏み込まれることはない。自転車や徒歩なら、二・八リットルのディーゼルターボエンジンにものを言わせて轢(ひ)いてしまえばいい。

「ここで……ですか……?」萌愛が不安そうな顔を向けてきた。

 目は円形に近く、小さな口から覗(のぞ)く前歯が大きめの彼女には小動物のような愛くるしさがあった。鴇田のペニスはすでにパンツを破りそうなほど怒張していた。

「見てごらん」鴇田はシートの背後を指さして、照明のスイッチを入れた。

 萌愛が覗き込む。

 鴇田は外国車も含めて何台かバンを乗り継いできたが、最後に行き着いたのはトミタが世界に誇るネオエースだった。この車は、ワークユースだけでなくプライベートでのホビー使いもできるよう、ネオエースを専門とするカスタムショップで、エクステリアや足回り、インテリアなどをこれまでに四回カスタマイズしてもらっている。

 後部キャビンの片側にステンレスのパンチングボードを使ったシステムラックを設置し、ふだんはガーデナーとして必要な道具類を収納している。ベッドキットも積まれているので、残りのスペースにベッドを展開して車中泊もできる。

 天井の数ヵ所に設置した調光式ライトの柔らかな光が、人工スエードとアメリカ製のネイティブアメリカン柄の布地で覆われたフラットベッドを照らし出した。ピラー付近につけたアロマライトはパープルの光とリラクゼーションを誘う香りを放っている。鴇田がオーディオのスイッチを入れると、ゆったりしたチルアウトミュージックのプレイリストがカロッツェリアのスピーカーから流れ出した。

「……すごい」鴇田を上目遣いに見る萌愛の頰にえくぼが浮かんだ。

(つづく)

連載第107回

 
里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

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