◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第108回

目に涙を浮かべて萌愛が語ったおぼろげな記憶。それを聞いた鴇田は……。
要領を得ない彼女の言葉をつなぎ合わせると、過去萌愛の身に起きたと思われる出来事が形をなしてきた。
小学四年生の頃、性被害に遭ったらしい。離婚したばかりだった萌愛の母親と萌愛は、困窮したシングルマザーの支援施設にひと月ほど滞在した。その間にだ。相手は施設長の男。入所者たちから──萌愛の母親を含む──人格者として慕われていた中年男だ。母親が外で働いている間に、学校から帰った萌愛の部屋を訪れて彼女を犯した。おそらく二度か三度。萌愛ははっきり覚えていないという。
性的虐待を受けた人間が、自己防衛のため被害の記憶を意識下に抑圧するのは珍しくない。いわゆる解離性健忘だ。
鴇田は興味があってトラウマに関する本を何冊か読んでいるが、かつて多重人格とも呼ばれた解離性同一性障害がそうした機序で発症し、その多くが性的虐待のサバイバーであることは、専門書を読むまでもなく数多くの映画やドラマ、小説などのフィクションでも前提として共有されるほど認知されている。萌愛が、わからない、覚えていないと言ったのは意図的についた噓ではないだろう。
鴇田が執拗(しつよう)に詰問を重ねた結果、萌愛は股間が痛かったという記憶を蘇(よみがえ)らせたが、当時、母親は娘の身に起きた出来事に気づかなかったようだ。シングルマザーとして娘との生活を支えるのに必死だったことは想像に難くない。だがおそらくそれだけではない。施設長の男は、自らの立場を利用して萌愛の口を封じた。お母さんにこれ以上辛(つら)い思いをさせたくなかったら、心配かけちゃ駄目だ──そんなことを言ったらしい。
萌愛は自分と母親の立場をわきまえて暗い秘密を母親に対して守り、同時に自分の心を守るために意識下へと記憶を沈めたのだ。
鴇田がそうした事情を把握したとき、記憶を強引にこじ開けられトラウマを再体験させられた萌愛は、今も苦痛を感じるかのようにぎゅっと身を縮め、心の血のように涙を流していた。
鴇田は二十代に読んだドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』をこの頃よく思い出す。長く入り組んだ小説で、もはや話の筋はあまり覚えていないが、登場人物の一人がたしかこんな問いを投げかけていたはずだ──もしこの世に神が存在するのなら、どうして幼い子供たちがひどい目に遭わされ続けるのか?
本質だ。そう感じたので記憶に残っている。十九世紀の作家の言葉は二十一世紀を生きる人間にもぐさりと刺さる。逆に言えば、子供に対する虐待は人類にとってそれほど普遍的ということだ。
圧倒的な力の差を背景に、抵抗できない相手を好きなようにいたぶる──吐き気がするほどの邪悪というものがこの世にあるならまさしくそうに違いないが、同時にその罪は、掃いて捨てるほど凡庸でありふれて空気のように地上に満ちみちているのだ。世界のあちこちから流れてくるヘッドラインを目で追うだけで、この世のどこにも安全な場所などないとわかる。
そんなことを考えながら、鴇田は収納スペースから三脚とビデオカメラ、照明を取り出し、フラットベッドにセットして撮影を開始した。