◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第109回

鴇田は笑い話のつもりだったが、萌愛の深刻な反応に戸惑いを覚える。
「興味ある?」
「あ……駄目なら、いいけど」
「いいよ、教えてあげる。大した話じゃないし。俺さ、母親、画家なのね。で、俺もガキの頃、絵の練習とかさせられてさ、母親が自分でヌードモデルをやったわけ。見たくないじゃん、母親の裸とか。けどデッサンするにはちゃんと見なきゃいけないわけ。しかもその場に父親もいるんだぜ? めっちゃ気まずくて恥ずかしくて、しまいには気持ち悪くていつも吐きそうになってた。それだけじゃなくてさ、うちの母親、逆に俺をヌードモデルにして描いた絵を何枚も売って金儲(かねもう)けしたり、絵の教室で生徒のおばちゃんたちの前で俺にヌードモデルまでさせたんだぜ。今なら完全に児童虐待じゃん。ドン引くだろ?」
鴇田は誘うように笑ったが、萌愛は笑わず、眉を暗くした。また目が潤んでくる。
「何、どした?」
「……わかりません。けど……かわいそう、トキオさん」鴇田を見つめて鼻をぐすんと鳴らした。
めったにないことが鴇田に起きた。戸惑いを覚えたのだ。
マダムとのエピソードを、鴇田は「鉄板」の笑い話として披露することがほとんどだ。男たちはたいてい笑い飛ばしてくれるか、下ネタとして食いついて話を広げてくれる。女たちの過半数は気持ち悪いと感じて鼻白む。腹の底から面白がるのは少数だが、そうでない女にも強烈な印象を残すのは間違いない。
オスとしての優位性を示すのに若い頃のやんちゃ話を披瀝(ひれき)する男はそこら中にいる。幼い頃の性的にきわどい体験談で女の関心を引く男も。だが、鴇田のようにユニークな話をレパートリーに持っている男は見たことがない。
鴇田にとってその過去は、人を退屈させない笑い話に過ぎない。深刻に捉えたことなど──少なくとも初めてセックスを経験して以降は──ない。
そのはずだった。
萌愛の気を深刻なトラウマからそらし、場の空気を変え、スムーズにセックスするために話した。それだけだ。萌愛のリアクションは想定外だった。映像が鴇田を不意打ちする。ミルク色の肌をした女の全裸。三十代のマダムだ。白いシルクのシーツの上でポーズを取っている。片膝を立てて座り、両手でバスト──そばかすがあり、扁平(へんぺい)な乳首はサーモンピンク、手を離した状態では乳首は正面より左右にそれぞれ十五度くらい開いている──を持ち上げている。
引き締まったウエストから骨盤が一気に大きくなり、下腹部の曲線は乳房を除けば体のどこよりも柔らかそうだ。その豊かな一帯が股間へ収束する部分を逆三角に覆う縮れ毛は、今アップにしている髪の毛と同じヘーゼルナッツ色で、瞳の色とも近い。当時マダムは腋毛の手入れをしていなかったがそちらの色は髪の毛より薄かった。
母親のヌードのデッサンを命じられたのは小学三年の夏休みだった。それまでも両親から静物のデッサンの指導を受けていたが、ヌードデッサンはそれとはまったく異質の体験だった。
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