◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第110回

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第110回
断章──鴇田 12
萌愛は一ミリも悪くない──。鴇田は言葉巧みに彼女の心の中へと入りこむ。

「萌愛ちゃんか。いい名前じゃん。トラウマを乗り越える方法、教えよっか?」

「……できるんですか?」

「できるよ」

「どうやって……?」食いついてきた。

「さっき言ったよな。嫌なこと思い出すと、その頃の自分に引き戻されるって」

 萌愛がうなずく。

「辛いのはさ、抵抗できなかったからじゃん? 小さかったし、無力だったから。でも今は違う。その頃より大きくなってるし、強くなってるし、賢くなってる。だろ?」

 少し考えてから、うなずいた。

「トラウマを乗り越える方法は、過去を取り戻すこと」

「取り戻す……?」

「ああ。耐えがたいほど辛い経験だからトラウマになる。当然思い出したくない。つまり、過去の一部が自分自身から奪われてるってことだ。それを取り戻して自分のものにできれば、トラウマは乗り越えられる」

 萌愛は口を尖らせた。理解できていないようだ。

「おっさんにレイプされたときの自分のこと、どう考えてる?」

 萌愛は考えているらしいが、なかなか言葉にならなかった。

「自分が悪かったとか思ってない? 隙があったとか、弱かったとか、馬鹿だったとか、おっさんにいい顔しすぎた、ひょっとして自分が誘ったんじゃなかったかなとか」

 萌愛がうなずいた。

「それ全部違うから。萌愛は全然、一ミリも悪くない。悪いのは、一方的に全面的に、小さな子にひどいことしたおっさんの方だ。違うか?」

 萌愛はうなずいた。

「萌愛は悪くない。悪くないのに、そのときの自分が許せない。受け入れられない。おかしいだろそんなの? それがトラウマだ。過去の自分が自分から切り離されたままになってる。だからずっと痛くて心が血を流し続ける。切り離された自分を受け入れ、抱き締めて一つになることができれば、トラウマは乗り越えられる」

 萌愛が目を見開き、こくっと息を吞んだ。

「今ちょっとやってみるか?」

「……やってみたい」

「やり方は簡単だ。今ここで、トラウマになってる記憶を思い出す。思い出したくない記憶をちゃんと思い出し、体験し直す。大事なのは、そのとき、ひどい目に遭わされた自分を励まし、受け入れてやること。さっき萌愛、俺に何て言ったか覚えてる? 『かわいそう』──そう言ったんだよ。昔の自分にもそう言って、抱き締めてあげるんだ。それができるのは萌愛しかいない」

 萌愛がうなずく。

 
里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

◎編集者コラム◎ 『私はあなたの記憶のなかに』角田光代
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