◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第114回

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第114回
断章──鴇田 16
鴇田の狙いとは裏腹な萌愛の対応。それは彼にとってかつてない屈辱だった。


 それでも数日後、時間ができた鴇田が呼びつけるとあの公園に出向いてきた。萌愛の表情は死んだようだった。おそらく心も。これまでと同じように荒川河川敷へ向かい、今度こそ快楽を通じて彼女の肉体と心を開かせるべく鴇田は努めたが、彼女はまた命あるラブドールと化して無反応に受け流した。鴇田にとってはかつて受けたことがないほどの屈辱だった。行為のあと、萌愛は改めて鴇田にサポしてほしいと要求し──今度は頭を下げ「お願いします」と言った──火に油を注いだ。

「よく考えろ、萌愛。お前、今のままでいいと思ってるのか? 目先の金に困って、はした金でサポを頼むような人生で」

「……今はバイトできないし。中学出たら、働きます」

「中卒でまともな仕事に就けると思うか? 今のお前の母親と同じように、クソみたいな金でこき使われるだけだぞ。同じように貧乏な男に捕まって、母親と同じように負け犬の人生を送る。それがお前の夢か?」

「けど……うち馬鹿だし」

「お前が馬鹿なのは、育った環境が悪いからだ。人生なんてな、遺伝子と育った環境で九割方決まっちまうんだよ。もっとましな環境に行けば、お前も馬鹿じゃなくなる」

「はは。そうなんすかね」

「俺がお前の人生を変えてやる」鴇田は萌愛の目を見つめて言った。「俺のものになれ」

 萌愛は鴇田を見てかすかに目を見開き、大きく息を吸った。

「……意味、わかんない」警戒する顔で慎重に言った。

 萌愛の胸ぐらをつかんで思いきり締め上げ、揺さぶって怒鳴りつけたかったが我慢した。なぜ俺の気持ちがわからない。なぜ俺を信じない。そう問い詰めたかった。だがそれは劣位のオスのムーヴだ。鴇田は黙って車を出し、公園で萌愛を降ろした。

 千葉県の自宅へ向かって車を走らせながら考えた。頭を冷やせ。あいつはお前が考えているような女じゃない。最下層で生き、最下層で死んでいくよう定められた、社会の生きた肥料とも言うべき人間の一人だ。同じことのくり返しに退屈して、そろそろ違う刺激に飢えてきた。萌愛を他の女たちとは違う特別な存在だと思い込みたくなった。自分の気まぐれを投影していただけだ。

 夢の中で見た、どこか聖女じみた萌愛の慈愛に満ちた笑みが脳裏に浮かんだ。

「──くそ」

 あれは幻影だ。俺が自分自身で生み出した。忘れろ。現実の萌愛は救いようがないほど愚かな生き物だ。

 アクセルを深く踏み過ぎていたのに気づいて緩める。大きく息を吐き、ステアリングを握る腕と肩の力を抜いた。

 あと一回。

 あと一回だけチャンスをやる。

 それで萌愛が自分のものにならなかったら──彼女のことはすっぱり切って、忘れる。

 決断を下したら、少しだけ気分がよくなった。

(つづく)
 
里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

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