◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第127回

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第127回
第七章──焦点 06
証拠開示請求からひと月あまり。志鶴は雨宮ロラン翔子と対峙していた。

「人聞きの悪いことおっしゃらないで」天宮が彼女に言う。「乙事件──相手方からのあなたに対する不貞行為による慰謝料請求は退けてみせましたよ」

「け、けど……あいつからの慰謝料は?」志鶴の依頼人を指さした。「財産分与は? え? え? だって、もらえるって……?」

 依頼人女性を見下ろす天宮の目が、あからさまに侮蔑をはらんだものになる。

「あなたは二つミスを犯した。一つ──反対尋問で、私に言われたとおりに答えなかった。冷静さを失ってまんまと相手の弁護士に乗せられ、失点した。二つ──係争中だというのに私の言うことを聞かず、欲望に負け、不貞相手との逢瀬(おうせ)に走った。それも一度ならず。私の言うとおりにさえしていれば望んだものを手に入れられたのに。この結果は自業自得――いえ、むしろ幸運だったと思われた方がよろしいわ」

 天宮はそう告げると、さっと体を翻し、こつこつとヒールを鳴らして出口へ向かった。

 残された女性は志鶴の依頼人をにらみつけ、それから志鶴を見た。三十六歳という年齢よりどこか幼く見える、どちらかといえばおっとりしたタイプの顔が凶悪に歪んだ。

「──お前のせいじゃん、人権ガー弁護士」憎々しげに言った。「女のくせに、女子中学生レイプして殺した男の弁護も平気でできちゃうサイコパスが、汚い手使ってあたしと彼氏君パパラッチしたり、反対尋問でハメたりするから──みんなお前の……ふざっけんなクソ弁護士!」

 面と向かって誹謗(ひぼう)中傷されているのに、不思議と気分は悪くない。志鶴は「行きましょっか」と依頼人男性を促し、まだ同じ場所でぶつぶつ言っている相手方女性をあとに、法廷を出た。

 自ら不貞行為を働きながら、おそらくは代理人である天宮の入れ知恵で、夫に対し虚偽の精神的DVによる離婚訴訟をしかけてきたのが彼女だ。夫の代理人となった志鶴は、反対に不貞行為で妻を訴えるという戦術を取り、探偵を使って証拠を押さえた。甲事件が妻による訴訟、乙事件が夫による訴訟。二つを併合して審理することになった。

「いっやー、ありがとうございました、川村先生!」エレベーターに乗ると、依頼人が晴れ晴れした表情で言った。「一時はどうなるかと思いましたが、要は痛み分けでチャラ、っていう判決ですよね。裁判官もわかったんだなあ、あいつが噓つきだって。こっちの訴えは本当だから悔しいっちゃ悔しいけど、最初からべつにあいつから慰謝料取ろうとか考えてなかったし、噓のDVで金取られるのだけは我慢ならなかったんで。あんなひどい女と手切れ金もなくすっぱり別れられて、俺的には超ラッキー。先生のおかげです!」

「いえいえ、こちらこそありがとうございます」

 志鶴がそう答えると、依頼人は一瞬不思議そうな顔をした。

 配偶者からのDVの訴えに対し虚偽DVを主張する被告──一般に男性が多い──の中には、実際にDVを働いている者も少なからず存在する。女性である原告に虚偽DVを訴えさせた天宮こそ、志鶴に言わせれば弁護士としてはむろん、汚い手を使う最低の糞ビッチだ。

 依頼人の期待に応えることができたのもうれしいが、天宮ロラン翔子にあんな顔をさせてやれたことが個人的に快感だった──とはさすがに口に出せない。

 裁判所を出る。朝からの雨は降り続いていた。七月の中旬も終わろうとしているがまだ梅雨が明ける気配はない。依頼人と別れたところでスマホが鳴った。パラリーガルの森元逸美からだ。

「増山さんの件、回答出たよ──類型証拠開示請求の」

(つづく)
連載第128回

 
里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

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