◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第13回

弁護士だけは判断してはいけない──志鶴は慎重に被疑者と言葉をかわす。
今後の弁護方針を決めるために、話しづらいことも話してもらわなければならない。大事なのは、彼がどんな人間であれ、どんな行為を働いていたのであれ、弁護士まで取調べを行った刑事と同じ側に立たないことだ。
こうした状況でいつも思い出す言葉がある。
「判断しない、ということです」
志鶴には師と仰ぐ弁護士がいる。司法試験に合格後、司法修習生時代のエクスターンではその弁護士の事務所に世話になった。弁護士にとって一番大切なことは何かと訊ねた志鶴に彼が答えたのが、その言葉だった。
犯罪の被疑者とされたときから、その人はあらゆる人間の判断の対象とされる。被害者とその関係者はもちろんのこと、警察官、検察官、裁判官、マスコミ──そして、報道によって彼あるいは彼女を知った大衆。被疑者が起訴されて被告人となり、裁判の結果犯罪者とされれば、彼あるいは彼女に対して判断を下す人たちはその依(よ)って立つところをどんどん強固にしてゆくだろう。法の裁きだけが断罪ではない。
だからこそ。
弁護士だけは判断してはいけない。
志鶴が師と仰ぐ弁護士はそう語った。以来志鶴は、六法全書に記載されたどんな条文より、その言葉を己の金科玉条として胸に刻んでいる。
増山淳彦は今、パニック寸前まで追い詰められている。彼の力になるために、まず彼の警戒を解き、信頼を勝ち取らなくてはならない。
「取調べ、お疲れ様でした」志鶴は頭を下げる。「大変でしたね。今日は、朝からずっと取調べだったんですか?」
増山が、しばらく考えてから、うなずいた。
「増山さんは、今朝、初めてこの警察署に連れてこられたんですか?」
彼が首を横に振る。
「では、いつ?」
「……昨日」
志鶴はノートに書きつける。
「時間とか、覚えてますか?」
「……時間は覚えていないけど、朝」
本当は、できるだけオープンに、つまり自由に答えられる質問を投げる方がいい。しかし、寡黙なタイプでは、イエスかノーかで答えるクローズドな質問を重ねて言葉を引き出すしかない場合もある。
「警察の人は、そのとき──」
「寝てたの」増山は志鶴の言葉を遮った。「朝の配達終わって、帰って飯食って寝てたら、母ちゃんが起こすから何かと思ったら、警察だって。何でって思ったけど、母ちゃんもわかんないし、仕方なく起きたら本当に警察来てて。話聞きたいから来てくんないかって」
話し始めると、饒舌(じょうぜつ)とまでは言わないにしても、増山の言葉は滞ることなく流れた。が、そこで途切れた。"朝の配達のあと"と志鶴は書きつける。流れを断ち切らぬよう、あらかじめ考えていた質問を修正する。
「配達のあとだったんですね。配達って──」
「新聞」
「そうか。増山さんは、新聞配達をされてるんですね」志鶴はノートに記す。「ご実家が販売店なんですか?」
「違う。通い」
志鶴はそれも書き込んだ。志鶴が知る限り、彼の職業についての報道はまだされていない。
「何でって思った、っていうことは、昨日より前に警察の人が来たことはなかったんですね?」
「うん……あ、いや、来てた。けど、母ちゃんに話聞いただけで帰った。何か怪しいやつとか見なかったかって」
デリケートな領域にさしかかっているのを感じる。
「ええと、それって、いつごろだか覚えてますか?」
彼の表情が曇った。
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