◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第131回

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第131回
第7章──焦点 10
真犯人への手がかりは? 志鶴は「司法解剖に関する鑑定書」に目を通す。

「漂白」目次


 書類を読んでいるだけで息が詰まりそうになる。起訴前、志鶴は一度岩切本人と直接対峙した。結果的には失敗したが、岩切が増山の身柄の勾留を裁判所へ請求するのを防ごうと東京地検の執務室へ乗り込んだ。岩切はその場で、むごたらしく命と尊厳を踏みにじられた綿貫絵里香の理不尽な死を悼み、犯人への激しい憤りを志鶴にぶつけてきた。この事件の犯人は「俺たちでもめったにお目にかかることのない、胸糞(むなくそ)が悪くなるような外道中の外道」だとも。

 その義憤は志鶴にも理解できる。だがそれが増山の起訴という結果的に誤った方向へと岩切を駆り立てる原動力になったのも事実だ。

 遺体発見現場では岩切による検視と並行して足立南署の警察官による現場見分、鑑識課員による採証活動も行われていた。志鶴は、足立南署の司法警察員警部補――おそらく強行犯を担当する刑事――が作成したと思(おぼ)しき「実況見分調書」を手に取った。現場を中心に検視調書よりさらに広範囲に周辺との位置関係が記され、図面や写真の数も多かった。鑑識課員が足跡や遺体近くにあった煙草の吸い殻二本等の資料を採取したことが最後に書いてあったが、他に、凶器等めぼしい遺留物についての記載はなかった。

 岩切が請求した「鑑定処分許可状」を裁判所が発して綿貫絵里香の遺体は司法解剖にかけられた。司法解剖には検察官、警察官が立ち会い、それぞれが「司法解剖立会結果報告書」及び「写真撮影報告書」を作成する。解剖の状況を撮影し、執刀医から聴取した死因等についての判断も記されている。解剖執刀医が鑑定書を完成させるまで数ヵ月かかることもあるが、それまでに捜査機関の捜査方針を決めるのがこれらの記録と、解剖直後に医師が作成する「司法解剖一応報告書」、それでも不十分な点について岩切が聴取した「解剖執刀医からの事情聴取報告書」だ。志鶴はこれらの書類に目を通してから「司法解剖に関する鑑定書」を読んだ。

 司法修習生だった頃、検察修習で何度か司法解剖に立ち会った。検察がすでに開示していた浅見萌愛の死体見分調書や司法解剖の鑑定書にも目を通している。それでもカラー写真が多数挿入された綿貫絵里香の一連の書類を読むのには多くのエネルギーが要った。

 綿貫絵里香の遺体には死の直前に性交を行った痕跡があった。化学熱傷のため判別できない部分もあったが、処女膜に生じた裂傷が見られた。死因は腹腔(ふくこう)に到達する穿通性(せんつうせい)外傷によって起きた肝臓、腸間膜、腎臓等の臓器の開放性損傷による失血死と診断される。腹部九ヵ所の創口(傷口)は直線状で、創端の一方が尖鋭(せんえい)でもう一方が線分状に広がっているので、成傷器(凶器)はナイフ等の有尖片刃器(先端の尖った片刃の刃物)であると推定できる。刺創の皮膚表面から創底までの距離――創洞長(傷の深さ)を正確に測定するのは困難だが、成傷器の刃長は十センチ以上、刃幅は三センチ以内であろうと推測される。

 
里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

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